訓読 >>>
3745
命(いのち)あらば逢ふこともあらむ我(わ)がゆゑにはだな思ひそ命だに経(へ)ば
3746
人の植(う)うる田は植ゑまさず今更(いまさら)に国別(くにわか)れして我(あ)れはいかにせむ
3747
我(わ)が宿(やど)の松の葉(は)見つつ我(あ)れ待たむ早(はや)帰りませ恋ひ死なぬとに
3748
他国(ひとくに)は住み悪(あ)しとそ言ふ速(すむや)けくはや帰りませ恋ひ死なぬとに
3749
他国(ひとくに)に君をいませていつまでか我(あ)が恋ひ居(を)らむ時の知らなく
要旨 >>>
〈3745〉命さえあれば、お逢いできる日もありましょう。私のためにそんなに強く思い悩まないで下さい、命さえ長らえていたら。
〈3746〉世間の人が植える田植えをなさらず、今になって国を別れて住むことになってしまい、私はどうすればいいのでしょう。
〈3747〉我が家の庭の松の葉を眺めながら、私はひたすらお待ちします。一刻も早くお帰り下さい、私が恋い焦がれて死なないうちに。
〈3748〉他国は住みにくいと申します。今すぐにでも帰ってきてください。私が恋い焦がれて死なないうちに。
〈3749〉他国にあなたを行かせてしまって、いつまで私は恋い焦がれていればよいのでしょう。いつ逢えるとも分からないまま。
鑑賞 >>>
狭野弟上娘子が、都に留まって悲しんで作った歌9首のうちの5首。3745の「はだな」は、ひどく、はなはだ。3746の「植ゑまさず」は、お植えにならず、植えてくださらず。在京当時に宅守が農事を手伝ってくれたことを言っているようです。「国別れ」は、郷里を離れて別々に住んでいること。3747の「松の葉」は「待つ」に掛けています。もともと松の名は「待つ」が語源とされ、神を迎え待つことから付けられたといいます。「死なぬとに」は、死なないうちに。3749の「いませて」は、居らせての敬語。流罪は赦免の日を待つのみで、いつと期待することはできませんでした。
宅守が激情のままに綴った14首に対し、娘子の9首は、諭し懇願し嘆く歌となっています。窪田空穂は、3745について「詠み方は落ちついた、余裕のあるもので、しみじみと、要を得た言い方をしている。別れに臨んでの娘子の歌は昂奮したものであったが、別れての後は、比較的静かであったことがうかがえる。それに反して宅守は、別れてしばらくの間は、比較的静かであったが、時を経るに従って昂奮してきたことが知れる。この相違は、この二人の場合だけではなく、広く見ての男女の傾向の差と思われる」と言っています。
窪田空穂
窪田空穂(くぼたうつぼ:本名は窪田通治)は、明治10年6月生まれ、長野県出身の歌人、国文学者。東京専門学校(現早稲田大学)文学科卒業後、新聞・雑誌記者などを経て、早大文学部教授。
雑誌『文庫』に投稿した短歌によって与謝野鉄幹に認められ、草創期の『明星』に参加。浪漫傾向から自然主義文学に影響を受け、内省的な心情の機微を詠んだ。また近代歌人としては珍しく、多くの長歌をつくり、長歌を現代的に再生させた。
『万葉集』『古今集』『新古今集』など古典の評釈でも功績が大きく、数多くの国文学研究書がある。詩歌集に『まひる野』、歌集に『濁れる川』『土を眺めて』など。昭和42年4月没。
※ 参考文献はこちらに記載しています。⇒『万葉集』について