大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

安積皇子が亡くなった時に大伴家持が作った歌(1)・・・巻第3-475~477

訓読 >>>

475
かけまくも あやに畏(かしこ)し 言はまくも ゆゆしきかも 我(わ)が大君(おほきみ) 皇子(みこ)の命(みこと) 万代(よろづよ)に 見(め)したまはまし 大日本(おほやまと) 久迩(くに)の都は うち靡(なび)く 春さりぬれば 山辺(やまへ)には 花咲きををり 川瀬(かはせ)には 鮎子(あゆこ)さ走(ばし)り いや日異(ひけ)に 栄(さか)ゆる時に およづれの たはこととかも 白栲(しろたへ)に 舎人(とねり)よそひて 和束山(わづかやま) 御輿(みこし)立たして ひさかたの 天(あめ)知らしぬれ 臥(こ)いまろび ひづち泣けども 為(せ)むすべもなし

476
我(わ)が大王(おほきみ)天(あめ)知らさむと思はねばおほにそ見ける和束(わづか)杣山(そまやま)

477
あしひきの山さへ光り咲く花の散りぬるごとき我(わ)が大君(おほきみ)かも

 

要旨 >>>

〈475〉心にかけるのも恐れ多く、言葉に出すのももったいない、我が大君(皇子)が万代までもお治めになる筈だったこの大日本(おおやまと)の久迩の都。草木もうち靡く春ともなれば、山には花がたわわに咲き、川瀬には若鮎が走り回り、日に日に栄えていく折りも折り、人を惑わす空言というのか、私たち舎人は白装束に身を包み、和束山に御輿を立てて、はるか天界を支配してしまわれたので、大地を転がり回り、涙にまみれて泣くのだが、どうにもなす術がない。

〈476〉我が大君が天上を支配なさろうとは思いもしなかったので、今までなおざりにしか見ていなかった、この杣山の和束山を。

〈477〉山を輝かせるほどに咲いていた花が、にわかに散り失せてしまったような、我が大君よ。

 

鑑賞 >>>

 天平16年(744年)春2月、安積皇子(あさかのみこ)が亡くなったときに、内舎人(うどねり)の大伴家持が作った歌。家持は、天平10年から16年まで、天皇の近くに仕える内舎人でした。

 安積皇子は、聖武天皇県犬養広刀自(あがたのいぬかいのひろとじ)との間に生まれた皇子で、閏正月11日に恭仁京から難波京へ遷都の移動中、脚の病を発したため恭仁京に戻り、2日後の13日にわずか17歳で没しました。藤原氏出身の光明皇后との間には阿倍内親王(のちの孝謙天皇)しかいなかったため、皇子は有力な皇位継承の候補者でした。その死があまりに急で不自然だったことから、毒殺されたのではないかとする説もあり、反藤原で結ばれた橘氏と大伴氏にとっては大きな打撃となりました。

 475の「かけまく」は、心にかける。「あやに」は、言いようがなく。「ゆゆし」は、忌み憚られる。「大日本久迩の都」は、藤原広嗣の乱の直後に聖武天皇平城京から遷都した恭仁京の正式名。「うち靡く」は「春」の枕詞。「いや日異に」は、日増しに。「およづれ」は、人を迷わす言葉。「たはこと」は、でたらめ。「ひさかたの」は「天」の枕詞。「天知らしぬれ」は、葬られて天上を治める身になった意。「和束山」は、京都府相楽郡和束町の山。

 476の「おほに」は、明瞭でない状態、ぼんやりとしたさまを示し、多くは霞や霧などの比喩として視覚的な不確かさを表す語ですが、いい加減なさま、なおざりなさまを表現する場合もあり、ここは後者の意です。「杣山」は、材木を切り出す山。そんな山が皇子の墓所となってしまったという嘆きです。477の「あしひきの」は「山」の枕詞。

 左注に「右の3首は2月の3日に作る歌」とあり、皇子が薨じた日から21日目にあたる三七日の供養の日に詠まれたようです。