大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

中臣宅守と狭野弟上娘子の贈答歌(10)・・・巻第15-3759~3762

訓読 >>>

3759
たちかへり泣けども我(あ)れは験(しるし)なみ思ひわぶれて寝(ぬ)る夜(よ)しぞ多き

3760
さ寝(ぬ)る夜(よ)は多くあれども物思(ものも)はず安く寝る夜は実(さね)なきものを

3761
世の中の常(つね)の理(ことわり)かくさまになり来(き)にけらしすゑし種(たね)から

3762
我妹子(わぎもこ)に逢坂山(あふさかやま)を越えて来て泣きつつ居(を)れど逢ふよしもなし

 

要旨 >>>

〈3759〉遡って事の始めを思い、悲しんで泣くけれど、何の甲斐もないので、わびしい思いで寝る夜を重ねている。

〈3760〉寝る夜は多くあるけれども、物思わずに安らかに寝る夜は、ほんとうにないことだ。

〈3761〉世の中の常の道理として、こんな有様になってきたのだろう、自分で蒔いた種のゆえに。

〈3762〉愛しい妻に逢えるという名の逢坂山を越えてきて、恋しさに泣いてばかりいるが。逢える手だてもない。

 

鑑賞 >>>

 中臣宅守の歌13首のうちの4首。3759の「たちかへり」は、事の始めに立ち返って。「わぶれて」は、沈み込んで。3760の「さ寝」の「さ」は、接頭語。「実」は、ほんとうに。3761の「すゑし種から」は、蒔いた種がもとで。3762の「我妹子に」は「逢坂山」の枕詞。「逢坂山」は、山城と近江の国境の山で、越前への街道にもつながっています。

 なお、宅守の配流は、狭野弟上娘子と通じたことが咎められたものとされていますが、次のような根拠から、全く違った原因だったのではないかとする見方があります。

 

  1. 詞書に「中臣朝臣宅守娶二蔵部女嬬狭野弟上娘子一之時、勅断二流罪一配二越前国一也。於レ是夫婦相二嘆易レ別難一レ会、各陳二慟情一贈答歌六十三首」とあり、流罪となった時期は示されているが、その原因は示されていない。また、もし二人の結婚が非合法であったなら、「娶」ではなく「姧」の文字が用いられるはず。さらに「夫婦」とあるので、結婚は公に認められていた可能性がある。
  2. もし二人の結婚が非合法であったなら、二人とも流罪に処せられるべきところ、狭野弟上娘子には何らの咎めがあった気配がない。
  3. 3758の宅守の歌で、大宮人による「人なぶり」は「今もかも」とあることから、宅守が都にいた時、すなわち結婚当初から何らかのいざこざがあったようであり、そのことが発端になって宅守が流罪に処された可能性がある。たとえば、宅守が中傷してくる相手を怒って殺傷したとか。
  4. 3761の宅守の歌で、こんな有様になったのは「すゑし種」、すなわち自分が蒔いた種の故に、と言って後悔している。それが娘子との結婚を指すとしたら、相手の娘子に向かってあからさまに言うのは不自然で、ひどく礼を失するものになる。そうではなく、二人が了知している別の事実のことを言っているのではないか。
  5. 天平12年(740年)に行われた大赦に、宅守は含まれなかったが、『続日本紀』には、大赦から除外された犯罪が列挙されており、職権を乱用して私腹を肥やす罪、殺人の罪、貨幣偽造の罪、強盗窃盗の罪、姦通の罪、また身分として、天皇への忠誠を要求される親衛軍の兵士と書かれている。この除外者の中に中臣宅守の名があり、宅守の場合は姦通に当たらないのであれば、勅勘を蒙り、また大赦から除外されるほどの重大な罪であったと考えられる(当時は死刑は廃止されていた)。