大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

大伴旅人の従者の歌(1)・・・巻第17-3890~3894

訓読 >>>

3890
我(わ)が背子(せこ)を我(あ)が松原(まつばら)よ見わたせば海人娘子(あまをとめ)ども玉藻(たまも)刈る見ゆ

3891
荒津(あらつ)の海(うみ)潮(しほ)干(ひ)潮(しほ)満(み)ち時はあれどいづれの時か我(わ)が恋ひざらむ

3892
礒(いそ)ごとに海人(あま)の釣舟(つりふね)泊(は)てにけり我(わ)が船(ふね)泊(は)てむ礒(いそ)の知らなく

3893
昨日(きのふ)こそ船出(ふなで)はせしか鯨魚取(いさなと)り比治奇(ひぢき)の灘(なだ)を今日(けふ)見つるかも

3894
淡路島(あはぢしま)門(と)渡(わた)る船の楫間(かぢま)にも我(わ)れは忘れず家をしぞ思ふ

 

要旨 >>>

〈3890〉あなたが私を待つという名の、その松原から見わたすと、海人娘子たちが玉藻を刈っているのが見える。

〈3891〉荒津の海では、引き潮、満ち潮それぞれに決まった時があるけれど、私は、いつになったら恋しくならないでいられるのだろう。

〈3892〉どこの磯にも海人の釣舟が泊まっている。我らの船はどこの磯に停泊することだろう。

〈3893〉船出したのは昨日のことだと思っていたのに、もう比治奇の灘にさしかかって、もう今日は、その灘を見ている。

〈3894〉淡路島の瀬戸にさしかかって、梶をせわしく漕ぐその間にも、私は家のことばかり思っている。

 

鑑賞 >>>

 題詞に「天平2年(730年)冬の11月、太宰帥(だざいのそち)大伴卿が大納言に任ぜられて都に上ったとき、従者たちは、別途海路によって入京した。その旅を悲傷(かな)しんで、各々が思いを述べて作った歌10首」の旨の記載があり、巻第17の冒頭に並べられている歌です。ここでは、そのうちの5首。

 当時、身分の高い人は陸路を、低い人は海路をとるのが当時の決まりでしたから、旅人は陸路で、従者の一部は船で京に向かいました。11月は旅人の大納言遷任が発せられた月、大宰府を出発したのは12月でした。

 3890の作者は、三野連石守(みののむらじいしもり:伝未詳)、残りは作者未詳。3890の「我が背子を我が」は「待つ」と続き、それを「松」に転じて「松原」を導く7音の序詞としたもの。3891の「荒津の海」は、博多湾内の福岡市西公園の海上大宰府からの起点となった港。3893の「鯨魚取り」は「比治奇の灘」の枕詞。「比治奇の灘」は、山口県西方の響灘か。3894の「門」は、明石海峡のこと。「家」は、家にいる妻を言い換えたもの。