訓読 >>>
143
磐代(いはしろ)の岸の松が枝(え)結びけむ人は帰りてまた見けむかも
144
磐代の野中(のなか)に立てる結び松(まつ)心も解けずいにしへ思ほゆ
145
天(あま)翔(がけ)りあり通ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ
146
後(のち)見むと君が結べる磐代の小松がうれをまた見けむかも
要旨 >>>
〈143〉磐代の岸の松の枝を結んだという人は、無事に帰ってきて、再びその枝を見たであろうか。
〈144〉磐代の野中に立っている結び松よ、お前のように私の心にも結び目ができて解けず、昔のことがしきりと思われる。
〈145〉有間皇子の魂は空を飛び、いつもこの松に通って見続けているだろう。それは人は知らなくとも、この松は知っている。
〈146〉後に見ようと思い決め、君が結んだ磐代の小松の枝先を、再び見られたであろうか。
鑑賞 >>>
ここの歌は、謀叛の疑いをかけられ、わずか19歳で殺された有間皇子を偲ぶ歌で、『万葉集』には4首が載っています。
143・144の作者は長忌寸意吉麿(ながのいみきおきまろ)。人麻呂と同時代から、やや後の時代にかけて活動した歌人ながら、伝未詳。「忌寸」というのは姓(かばね)の一つで、文武天皇の時に制定された八姓のうちの第四位にあたります。ここの歌は、大宝元年(701年)の紀伊行幸に従駕しているので、その折に詠まれたものと考えられています。この時代には、事件が中大兄皇子によって仕組まれていたことはすでに分かっていたようです。143の「結びけむ」の「けむ」は、過去の伝聞。「人」は、有馬皇子を指しています。「見けむ」は過去推量。144の「結び松」は、そのような名で呼ばれていた松とみえます。「心も解けず」は、鬱屈した状態。
145は、山上憶良が、意吉麿の歌に追和した歌。作歌時期は、憶良が唐から帰国した後の慶雲年中と考えられています。「天翔り」は、有馬皇子の魂の状態を言ったもの。ただし、原文「鳥翔成」は難訓で、「翼(つばさ)なす」「鳥(とり)翔(かけ)り」と訓むなど、定まっていません。「天翔り」は、魂の行動を叙する語として最も妥当とされ、憶良が巻第5-894の歌でも用いている語です。「あり通ふ」は、通い続ける。主語は有馬皇子の魂。「人こそ知らね」は「こそ」を受けて已然形の係り結びとなる形。不本意な死を余儀なくされた人の魂は、黄泉の国に安住できないといい、まして怨霊ともうべき有馬皇子は、この世に遺恨を残したまま磐城や藤白の辺りを彷徨っていて当然と見られたのでしょう。
146は、大宝元年(701年)の紀伊行幸に柿本人麻呂が従駕した際に「結び松」を見て作った歌とされ、『柿本人麻呂歌集』に出ています。「君」は、有馬皇子のこと。「小松」の「小」は、小さい意味ではなく、愛称。「うれ」は、梢、枝の先端。ただ、この歌は、143の意吉麿の歌と第5句が等しく、内容もほぼ同じであり、その歌柄から斎藤茂吉は、「これを人麿作とせねばならぬ特徴は見つからない程度のもの」と指摘しています。題詞下の小字による注「柿本朝臣人麻呂歌集中出也」という同集所出歌としては異例の注のあり方などと合わせて、この歌を人麻呂歌集所出とすることには疑問が持たれています。
いずれの歌も「松」に心を留めています。結ばれた松は、無事に戻ってきた人によって解かれなければなりません。「松」は「待つ」に通じます。結ばれたまま解かれずにいる松がいつまでも待っている姿をうたうことによって、皇子の魂をなぐさめています。この事件が、万葉の人々の心にも深く突き刺さっていたことがうかがえます。ただ、有馬皇子の歌として伝えられる141・142の歌は、もともと141の1首だけだったかもしれません。ここにある追和歌のすべてが141に対してのみ歌われており、142には全く触れられていないためです。142の歌自体の内容もがらっと違っており、皇子の物語が伝承するうちのどこかの時点でつけ加えられたものかもしれません。