訓読 >>>
2455
我(わ)がゆゑに言はれし妹(いも)は高山(たかやま)の嶺(みね)の朝霧(あさぎり)過ぎにけむかも
2456
ぬばたまの黒髪山(くろかみやま)の山菅(やますげ)に小雨(こさめ)降りしきしくしく思ほゆ
2457
大野(おほの)らに小雨(こさめ)降りしく木(こ)の下(もと)に時と寄り来(こ)ね我(あ)が思(おも)ふ人
要旨 >>>
〈2455〉私のせいで噂になったあの女(ひと)は、まるで高山の嶺の朝霧が消えるように、もうあきらめてしまったのだろうか。
〈2456〉黒髪山の草の上に雨が降りしきるように、あとからあとからひっきりなしに、あの人のことが思われる。
〈2457〉広々とした野に小雨が降っています。こんな時こそ木の下に立ち寄ってください、私の好きな人。
鑑賞 >>>
『柿本人麻呂歌集』から「寄物陳思(物に寄せて思いを述べた歌)」。2455の「高山の嶺の朝霧」は「過ぎ」を導く序詞。「過ぎ」を死の意だとして、「高山の峰にかかる朝霧のように、この世を過ぎて死んでしまったのだろうか」と解するものもあります。人目を忍ぶ関係だったので、その死を知らせる確かな伝手もなかったのでしょうか。「けむ」は、過去推量。「かも」は、疑問。
2456の「ぬばたまの」は「黒」の枕詞。「黒髪山」は、奈良市法華町の北、佐保山の一部の小山。「降りしき」は、しきりに降り。「しくしく思ほゆ」の上が序詞。「しくしく」は、ひっきりなしに、重ね重ね。長い序詞ながら、詩人の大岡信は、「それが長いというにとどまらず、純粋な叙景と見える表現の中に、しみじみとした哀感をしのばせている手腕は見事」と評しています。2457の「大野ら」の「ら」は、接尾語。「時と」は、よい機会として。