訓読 >>>
2409
君に恋ひうらぶれ居(を)れば悔(くや)しくも我(わ)が下紐(したひも)の結(ゆ)ふ手いたづらに
2410
あらたまの年は果つれどしきたへの袖(そで)交(か)へし児(こ)を忘れて思へや
2411
白栲(しろたへ)の袖(そで)をはつはつ見しからにかかる恋をも我(あ)れはするかも
要旨 >>>
〈2409〉あなたが恋しくてしょんぼりしていると、悔しいことに、下紐が解けるだけで、結ぶ手数が無駄になります。
〈2410〉年は暮れたが、袖を交して添い寝した可愛い女のことを思い出して忘れることができようか、できはしない。
〈2411〉真っ白な袖をちらりと見かけたゆえに、こんなにも苦しい恋に私は落ちてしまっていることだ。
鑑賞 >>>
『柿本人麻呂歌集』から「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」3首。2409の「うらぶれ居れば」は、しょんぼりしていると。「悔しくも」は、悔しいことに、残念にも。「下紐」は、下着の紐。「いたづら」は、役に立たない、無駄である。「結ふ手いたづらに」の原文「結手徒」で、ユフテモタダニ、ユフテムナシモなどと訓むものもあります。下紐の解けるのは恋されているはずなのに、その相手は来ないので、解ける下紐を結ぶのが無駄になる、との女の嘆きです。
2410の「あらたまの」は「年」の枕詞。「あらたま」は、掘り出したままで磨かれていない玉。「年」へのかかり方は未詳ながら、あらたまる年との語幹が一致するので使われたとも言われます。「年は果つれど」は、年は終わるけれども。「しきたへの」の「しきたへ」は、敷物にする栲で「袖」の枕詞。「袖交へし児」は、袖を交わして共寝をしたかわいい女。「忘れて思へや」の「や」は反語で、思い忘れようか、忘れはしない。年の暮れに女に贈った歌で、まだ関係ができて日の浅い女だと見えます。
2411の「白栲」は、栲の繊維で織った布。原文「白細布」で、その白くうるわしいのを讃えて「細」の字を加えたものと見られています。「白栲の」は「袖」の枕詞で、ここは女の物。「はつはつ」は、わずかに。「見しからに」は、見たゆえに、見たばっかりに。「かも」は、詠嘆。そうした見方だっただけに、よけいに女に対する空想が広がったのかもしれません。斎藤茂吉は、「これは男の独り嘆息する趣の歌で、相当感じの乗っているものである。白細布は枕詞に使っているが、若くて美しい女の容子を暗指しているように思えるし、『袖』を以て代表せしめた点は、『妹が目を欲り』などと同じ技巧に属し、万葉の歌に『袖交はす』という語はなかなか多いから、実際的にも、また美学的にも、袖というのが注目を引いたものであっただろう」と述べています。