訓読 >>>
黄葉(もみちば)の過ぎまく惜しみ思ふどち遊ぶ今夜(こよひ)は明けずもあらぬか
要旨 >>>
黄葉が散ってしまうのを惜しみ、気の合う仲間同士で遊んでいる今夜は、このまま明けなければいいのに。
鑑賞 >>>
大伴家持の歌。天平10年(738年)10月17日、右大臣・橘諸兄の旧宅で開かれた宴会で詠まれた歌11首とある中の1首です。従三位・大納言の地位にあった橘諸兄は、この年の正月に正三位・右大臣へと昇格していました。また、大伴一族の大伴道足が参議に就き、同じく大伴牛養が従四位の地位に昇りました。道足は、かつて旅人が太宰帥として筑紫にあったとき勅使として派遣され、太宰帥の家で饗宴を共にした人で、一族の有力な一員でした。また牛養も翌年に参議になってから、道足が死去した後も一族を代表する立場にありました。
「過ぎまく」は「過ぎむ」の名詞形で、散り去ること。「思ふどち」は、気心の知れた仲間。「明けずもあらぬか」の「~も~か」は、願望。この時の家持の肩書は、天皇の付き人である「内舎人(うどねり)」で、宴席には奈良麻呂以下、久米女王、長忌寸娘、三手代人名、秦許遍麻呂、県犬養吉男、県犬養持男とともに、大伴池主、大伴書持も集っていました。これは家持にとって、橘諸兄・奈良麻呂父子と政治的な立場を同じくする交流行動となり、この政治的出会いが、家持のその後の人生にとって決定的な意味をもつことになります。
大伴家持の生涯
大伴家持は、大伴旅人の晩年54歳の時の子で、母は妾であった丹比(たぢひ)氏の女性。生年は養老2年(718年)とする説が有力です。神亀5年(728年)に父旅人が大宰帥(大宰府の長官)として西下。11歳の家持もこれに従い、程なく養母の大伴女郎を失います。帰京後の天平3年(731年)父旅人も死去。天平5年、16歳になった家持は、年月の明らかな歌では初めて『万葉集』に歌(巻第6-994)を残します。同6年、17歳の時に、蔭位制により内舎人(うどねり)として出仕。同13年、24歳で正六位上。出仕以後の数年間に妾を亡くし(2人の遺児あり)、坂上大嬢と結婚。この頃、聖武天皇によって都が平城京から恭仁・難波・紫香楽(しがらき)の各京を転々としたため、官吏である家持の居所も佐保に一定しませんでした。同18年、29歳の時に、宮内少輔を経て越中守となり赴任、天平勝宝3年(751年)、34歳で帰京、少納言に。翌年にかけて東大寺大仏開眼会があり、同5年、36歳の時に絶唱春愁三絶(巻第19-4290~4292)を残します。同6年、兵部少輔、更に山陰巡察使を兼ね、7年2~3月に防人を検閲。この間、6年8月から7年2月まで作歌を欠きます。天平宝字元年(757年)6月、兵部大輔。7月に橘奈良麻呂の変が勃発、12月頃に右中弁。同2年、41歳で因幡守となり、同3年(759年)正月の賀歌(巻第20-4516)を『万葉集』の最終歌として、以後の作歌は伝わっていません。その後、薩摩守、太宰少弐、中務大輔、相模守、左京大夫、伊勢守等を歴任し、宝亀11年(780年)に参議。天応元年(781年)春宮大夫を兼ね、従三位。延暦2年(783年)に中納言となり、同4年8月に68歳で死去。ただし、死後まもなくに起こった藤原種継射殺事件に連座して元の官位を奪われ、大同元年(806年)まで従三位への復位はなされませんでした。