大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

朝霜の消なば消ぬべく・・・巻第11-2458~2461

訓読 >>>

2458
朝霜(あさしも)の消(け)なば消(け)ぬべく思ひつついかにこの夜(よ)を明かしてむかも

2459
我(わ)が背子(せこ)が浜(はま)行く風のいや急(はや)に急事(はやごと)増して逢はずかもあらむ

2460
遠き妹(いも)が振り放(さ)け見つつ偲(しの)ふらむこの月の面(おも)に雲なたなびき

2461
山の端(は)を追ふ三日月(みかづき)のはつはつに妹(いも)をぞ見つる恋(こ)ほしきまでに

 

要旨 >>>

〈2458〉朝霜のようにやがて消えるなら消えてしまえと思いながら、なかなか消えないこの思い。どのようにこの夜を明かしたらよいのだろう

〈2459〉あの人の浜辺を吹く風が急なように、至急な用事が増えて、あの人は私に逢わないでいるのだろうか。

〈2460〉遠く離れている妻が、振り仰いで月を見ながら私のことを思ってくれているに違いない。この月の面(おもて)に雲よ、たなびかないでおくれ。

〈2461〉山の端をなぞるように沈む三日月のように、ほんの少しだけあの娘を見た。それなのに今はこんなに恋しい。

 

鑑賞 >>>

 『柿本人麻呂歌集』から「寄物陳思(物に寄せて思いを述べた歌)」4首。2458の「朝霜の」は、その消えやすいところから「消」にかかる枕詞。「消なば消ぬべく」は、死ぬならば死にゆけと。原文「消々」で、ケナバケヌガニ、ケナバケナマク、ケナバケナマシなどと訓むものもあります。恋の相手のことばかり思い続け、身も心も消え入らんばかりなので、どのようにこの夜を明かしたものかと、甚だしい恋の感傷を歌っています。

 2459の「我が背子が」は、結句に続きます。「浜行く風のいや急に」の「いや」は、甚だ。この2句は「急に」を「急事」に続けてその序詞になっています。「急事」は、至急の用事。あるいは、巻第11-2712に「言速くは」とあることから、激しい噂の意とする説もあり、歌の表現としてはこちらの方が適当かもしれません。「逢はずかもあらむ」の原文「不相有」で、アハズヤアルラム、アハズヤアラムなどと訓むものもあります。

 2460の「遠き妹が」の原文「遠妹」で、トホヅマノと訓み、故郷に残してきた妻と解するものもありますが、トホヅマと訓む必然性がないことから、ここは遠く離れている、たとえば他部落に住む親しい女性(愛人)の意としています。「振り放け見つつ」は、はるか遠くを仰ぎ見ながら。「雲なたなびき」の「な」は、禁止。

 2461の「山の端を追ふ三日月」の「山の端」は山の稜線で、夕方、西の山の端の空に輝いてすぐに沈む三日月のこと。「追ふ三日月の」の原文「追出月」で、サシイヅルツキノ、オヒイヅルツキノなどと訓むものもあります。「出月」をミカヅキと訓む立場は、「朏」の文字を2つに裂いて「出月」と書いたものとしています。上2句は、山の端に出た月のように僅かに見える意で「はつはつに」を導く序詞。「はつはつに」は、わずかに、かすかに。「恋ほしきまでに」は、恋しく思われるほどに。

 

 

『万葉集』掲載歌の索引

【為ご参考】万葉仮名