訓読 >>>
4139
春の園(その)紅(くれなゐ)にほふ桃の花 下照(したで)る道に出で立つ娘子(をとめ)
4140
吾(わ)が園の李(すもも)の花か庭に散るはだれのいまだ残りたるかも
4141
春まけてもの悲しきにさ夜更けて羽振(はぶ)き鳴く鴫(しぎ)誰(た)が田にか棲(す)む
要旨 >>>
〈4139〉春の園一面、紅に照り輝いている桃の花、その下の道までも紅に輝いており、つと立つ乙女よ。
〈4140〉わが園の真っ白な李の花が散っているのだろうか、それとも淡雪が消え残っているのだろうか。
〈4141〉春を待ちかねて物悲しい気分の折り、夜が更けてきて、羽ばたきつつ鳴く鴫は、誰の田に心を残してまだ棲みついているのか。
鑑賞 >>>
天平勝宝2年(750年)の3月1日の暮れに、大伴家持が春の庭の桃李の花を眺めて作った、巻第19の冒頭歌です。この時33歳の家持は、越中での4度目の春を迎えていました。家持ははじめは単身赴任でしたが、途中、公用で一度帰京し、そのとき妻の坂上大嬢をたずさえて戻ったようです。4139の歌は、その妻に捧げた歌かもしれません。「紅にほふ」は、乙女の赤裳が桃の花に照り輝くさま。正倉院御物の「樹下美人図」が連想されるような歌です。斎藤茂吉はこの歌を評し、「春園に赤い桃花が満開になっていて、其処に一人の乙女が立っている趣の歌で、大陸渡来の桃花に応じて、また何となく支那の詩的感覚があり、美麗にして濃厚な感じのする歌である」と言っています。
4140の「はだれ」は、雪がまだらに積もっているさま。李の白い花と薄雪を混同させる詩的な仕掛けがなされ、父・旅人の代表作の一つである「我が園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも」(巻第5-822)を踏まえているとされます。4139の桃花も、ここの李花も「桃李もの言わざれども下自ら蹊を成す」の故事成句にある漢詩的な素材であり、これまで歌に歌われることはありませんでしたが、そうしたものを積極的に取り入れようとする家持の姿が窺えます。
4141は同じく3月1日の夜更けに、「飛び翔(かけ)る鴫(しぎ)を見て作れる」歌。「鴫」は、秋に来て春に帰る渡り鳥。「春まけて」は、春を待ち受けて。「羽振く」は、羽ばたきをする。ただ、夜中に田の鳥が羽ばたき、空を飛んで鳴く姿が見えただろうかとの疑問が呈され、これは家持が「鴫」という字(田と鳥)から思いついて作った歌ではないかとするの説も出ています。
奈良時代の美人
奈良時代の美人の条件について、作家の田辺聖子が、次のように解説しています。
―― まず、ぼってりとしたゆたかな肉(しし)おきが第一条件だったらしい。肩はまるく盛りあがり、首も太く輪が入るほどで、豊頬は垂れんばかり。化粧は隋・唐の風に倣っている。海外のファッションがすぐさまとり入れられるところは現代とちがわない。それにしても、わが国の遣唐使、つまり訪中団はみな男性で組織されていたから、彼らが帰朝してファッションリードしたとは思えないし、これはやはり朝鮮半島経由の帰化女性とか、舶載の絵とかからもたらされた文化だろうか。
白粉(おしろい)は文献の上ではすでに日本に伝わっていることになっているが、奈良時代に行われたかどうか。朱は愛用されたらしくて頬紅がかなり濃く刷(は)かれている。唇は小さいが厚めで両端がキュッと締り、それへも濃いルージュがさしてある。
眉は蛾眉(がび)という、太い長い三日月眉、目は切れ長で、鼻筋は通っているが高すぎず、人中(じんちゅう)は深い。古墳時代の埴輪の女性の、素朴な美しさの代わりに、妖艶な官能美がある。眉間に緑色の花鈿(かでん)、唇の両端にも靨鈿(ようでん)がほどこされ、それがいっそうセクシーで、ともかく凝ったメーキャップは、いかにも原色・極彩色の好きな天平びとらしい。
⇒ 各巻の概要