訓読 >>>
156
みもろの神の神杉(かむすぎ)已具耳矣自得見監乍共 寝(い)ぬ夜ぞ多き
157
三輪山(みわやま)の山辺(やめへ)まそ木綿(ゆふ)短木綿(みじかゆふ)かくのみゆゑに長くと思ひき
158
山吹(やまぶき)の立ちよそひたる山清水(やましみず)汲(く)みに行かめど道の知らなく
要旨 >>>
〈156〉あの三輪の神杉のように手を触れることもなく、夢に見るばかりで共寝をしない夜を多く過ごしてきた。
〈157〉三輪山にささげる麻の木綿、その木綿はこのように短いものであったのか。私は長いものとばかり思っていた。
〈158〉山吹の花が咲きにおう山の清水、その清水を汲みに行きたいと思うけど、どう行ってよいのか、道がわからない。
鑑賞 >>>
156の第3、4句の「已具耳矣自得見監乍共」は訓義未詳ですが、上掲の解釈のほか「せめて夢で逢いたいが、眠れぬ日が多い」などの試みがなされています。「みもろ」は、神の籠る所、ここでは大神(おおみわ)神社をさします。157の「三輪山」は、大神神社の神体である奈良県桜井市の山。「山辺」は、山の辺り。「真麻」の「真」は接頭語で、麻の繊維。「木綿」は、繊維の総称で、ここは神事に用いられる麻や楮(こうぞ)の繊維のこと。その短さを、十市皇女(とをちのひめみこ)の短命、または皇女との仲の短さに譬えて歎いています。
158では、死後の世界(冥界)の意味である「黄泉(よみ)」という語を、山吹の花の色である「黄」と「清水」で「泉」をあらわしているとされ、中国文芸の教養が察せられるところです。「立ちよそふ」の「立ち」は接頭語で、飾る、装う。「汲みに行かめど」は、清水を酌みに行こうと思うけれども。死んだ皇女に逢いに行きたいけれども、という気持ちの比喩。「道の知らなく」の「なく」は、詠嘆的終止の語法。
十市皇女は大海人皇子(後の天武天皇)と額田王との間に生まれ、のちに天智天皇の子・大友皇子(弘文天皇)と結婚しましたが、672年の壬申の乱で夫と父が戦うという悲劇に接します。結局、夫の大友皇子が敗北し自害、その後は天武天皇となった父に従い、明日香宮で暮らしたといいます。しかし、天武7年(678年)4月、天皇一行が斎宮に行幸するために列をなし、いざ出発という時、十市はにわかに宮中で発病し亡くなりました(享年30歳前後)。あまりに唐突な死だったため、自殺ではなかったかともいわれます。敗北した近江側の実質的な皇后として、また天武天皇の皇女として、複雑で辛い立場にあり、また亡き夫への思慕と絶望、寂寥感に耐えられず、身も心も折れてしまったのでしょうか。行幸は急きょ中止され、父の天武天皇は声を出して泣いたといいます。
高市皇子(たけちのみこ)は天武天皇の第一皇子で、十市皇女の異母弟にあたります。壬申の乱では天武側で奮戦しましたが、十市にとっては夫を死に至らしめた敵軍の将でもありました。そして、夫を亡くした十市に対し、高市は熱い心を寄せていきます。十市も高市に心惹かれるものの、激しく自分の心を責める・・・。そうした葛藤が彼女の死に追い打ちをかけたのかもしれません。高市のこれらの歌からは、十市に対するこの上ない痛恨の情が読み取れます。一説には、夫婦になっていたのではないかともいわれます。
高市皇子は、大功があったにもかかわらず、母の身分が低かったので皇太子にはなれませんでした。しかし、それがかえって彼の人生に幸運をもたらしたのでしょう。天武天皇が亡くなり、持統天皇の世になって、皇太子の草壁皇子亡きあと、太政大臣として迎えられました。人望もありましたが、高市は自身の才幹や覇気をひけらかすことなく隠忍自重し、身を全うしたのかもしれません。もし大津皇子のように衆目を集める才気をあからさまにしていれば、持統女帝は、わが子・草壁のライバルとして、大津同様に高市を抹殺したのではないかと想像せられます。
ヤマブキ(山吹)
バラ科の落葉低木。山野でふつうに見られ、春の終わりごろにかけて黄金色に近い黄色の花をつけます。そのため「日本の春は梅に始まり、山吹で終わる」といわれることがあります。 万葉人は、 ヤマブキの花を、生命の泉のほとりに咲く永遠の命を象徴する花と見ていました。ヤマブキの花の色は黄泉の国の色ともされます。