訓読 >>>
868
松浦(まつら)がた佐用姫(さよひめ)の児(こ)が領巾(ひれ)振りし山の名のみや聞きつつ居(を)らむ
869
足日女(たらしひめ)神の命(みこと)の魚釣(なつ)らすとみ立たしせりし石を誰(た)れ見き
870
百日(ももか)しも行(ゆ)かぬ松浦道(まつらぢ)今日(けふ)行きて明日(あす)は来(き)なむを何か障(さや)れる
要旨 >>>
〈868〉松浦の県の佐用姫が領巾を振ったという、あの有名な山の名だけ聞かされているのでしょうか。
〈869〉足日女(神功皇后)が鮎を釣ろうとお立ちになった石を実際に見たのはどこのどなたでしょうか。
〈870〉百日もかけて行く道ではない松浦への道を、今日行って明日は帰って来られるのに何の支障があるのでしょうか。
鑑賞 >>>
山上憶良が大伴旅人に贈った歌で、次のような内容の手紙が添えられています。――憶良、畏れ謹んで申し上げます。聞くところによると、「郡県の長官なるものは、法の定めにより管内を巡ってその風俗を視察する」ということであります。しかるに、この私は同行できなかったことが無念でならず、心中思うことはあれこれございますが、それを言葉で申すことは困難です。それで、謹んで三首の拙い歌を詠み、五臓の鬱憤を晴らしたいと思います。―― 旅人の管下巡行で松浦の辺を遊覧したことを聞き、何らかの公務のせいで同行できなかったことを大変悔しがっている文面です。憶良は国司として中央から派遣された立場にあったものの、大宰府との関係、とりわけその長官である旅人との間は、一種の扈従(こしょう:貴人への随従)関係に近かったようで、旅人との親密な心の交流が窺えます。
868の「松浦がた」は松浦県で、佐用姫の住地。「佐用姫」の伝説は、巻第5-871~875参照。「領巾」は、女性の肩にかけて垂らした装飾用の細長い薄布。869の「足日女」は、神功皇后のこと。『古事記』に、神功皇后が松浦川(現在の玉島川)で裳の糸を抜いて、飯粒を餌に鮎を釣ったとあり、また『日本書紀』には、新羅国を攻めるにあたり、神功皇后が占いをして吉兆の鮎を手に入れた、という話が書かれています。「み立たしせりし」の「み」は、敬語の接頭語。「立たし」は、立ツの敬語「立たす」の連用形で名詞。「せりし」は、していた。870の「百日し」の「百日」は、多くの日数の意。「し」は、強意の副助詞。
旅人と憶良に神功皇后にかかる歌があるのは、太宰帥や筑前守という役職上、神功皇后を祀る香椎の宮との関係が深かったこと、香椎の宮が造営されて間もなくその祭祀と神功皇后信仰が生き生きと働いていた時期であったこと、また当時、新羅との緊張関係が高まっている時期であったこと等が背景にあると見られています。