大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

藤原京より寧楽宮に遷りし時の歌・・・巻第1-79~80

訓読 >>>

79
大君(おほきみ)の 命(みこと)畏(かしこ)み 親(にき)びにし 家を置き こもりくの 泊瀬(はつせ)の川に 舟浮けて 我が行く川の 川隈(かはくま)の 八十隅(やそくま)おちず 万(よろづ)たび かへり見しつつ 玉桙(たまほこ)の 道行き暮らし あをによし 奈良の都の 佐保川に い行き至りて 我が寝たる 衣(ころも)の上ゆ 朝月夜(あさづくよ) さやかに見れば 栲(たへ)のほに 夜(よる)の霜降り 石床(いはとこ)と 川の氷(ひ)凝(こご)り 寒き夜(よ)を 休むことなく 通ひつつ 作れる家に 千代までに いませ大君よ 我も通はむ

80
あをによし奈良の宮には万代(よろづよ)に我(わ)れも通はむ忘ると思うな

 

要旨 >>>

〈79〉我が大君の仰せを恐れ謹んで、慣れ親しんだ我が家を後にし、初瀬川に舟を浮かべて我らが行く川の、次から次へと続く曲がり角にさしかかるたびに振り返って、我が家の方を見て、漕ぎ進んでいくうちに日が暮れ、やがて奈良の都の佐保川に辿り着いた。仮寝をしてはおった布の上から明け方の月夜が清らかに見え、辺り一面に真っ白な霜が降り、岩床のように川の氷が凝り固まっている。そんな寒い夜でも休むことなく、通い続けて造りあげたこの家に、いついつまでもお住まい下さいませ、我が大君よ。私どももずっと通ってお仕えしましょう。

〈80〉この我らが作った奈良の家には、いついつまでも万代に私も通って参ります。決してこの家を忘れることがあると思し召すな。

 

鑑賞 >>>

 この歌は、和銅3年(710年)の2月に藤原宮から寧楽宮(奈良の宮)に遷った時に、元明天皇が御輿を長屋原にとどめ、藤原宮を見たという御製歌(巻第1-78)の次に載っている歌です。「或る本」とあり、78の歌と同じ時期に作られたとして後から追加されたとみられる作者未詳歌です。藤原から奈良への遷都の勅命が下ると、大宮に奉仕すべき大宮人たちは新たに各自の邸宅を建築しなければならないことになり、それに携わった工匠も、藤原から奈良に通って建築に従事しました。この歌は、その工匠が家主に贈ったものです。遷都は和銅3年3月で、天皇はすでに2月に移っていたことが前の78の歌から分かります。この家主の家はそれに先立って完成しなければならず、歌の内容から、冬の極寒のうちから着手していたことが窺えます。

 79の「こもりくの」「玉鉾の」「あをによし」は、それぞれ「泊瀬」「道」「奈良」の枕詞。「親ぶ」は、馴れ親しむ。「泊瀬の川」は、大和川の上流で、その支流の一つである佐保川と合流するまでの称。「八十隈」は、多くの隈。「おちず」は、漏れず。「栲のほに」は、真っ白に。「石床」は、床のように平らになっている岩。家主を「大君」と言っているのは、そう呼ぶにふさわしい人だったと見えます。80の「あをによし」は「奈良」の枕詞。

 

平城京

 710年、天智天皇の皇女である元明女帝は、藤原京の西端の下ツ道を真北に延長し、それを軸に平城京を建設しました。東西4.3km、南北4.8kmの大きさで、南北を走る朱雀大路は72mもの幅がありました。
 ただ、現地の地形にかまわず藤原京を平行移動させたので、西の京(右京)は山がちとなり住みづらかったようで、そこで外京(げきょう)とよばれる東側に張り出した区域を作りました。東大寺興福寺、そして現在の奈良市の中心ははここにあります。
 この時代は、仏教の力によって国を守る「鎮護国家」思想が盛んで、聖武天皇は国ごとに国分寺国分尼寺を建て、東大寺に大仏を作って仏の加護を祈りました。また、唐から来日した鑑真に戒壇を作らせて僧侶を厳しく統制しました。

大和三道

 「大和三道」は大和の古道ともよばれ、「山の辺の道」とは別に、奈良盆地の中央から東寄りを南北に平行、等間隔に並んだ縦貫道です。東から順に「上つ道」「中つ道」「下つ道」とよばれ、長さはおよそ4里あります。『日本書紀』の壬申の乱に関する記事で、すでにこの三道の名が見えるので、天武朝以前に完成していたとみられています。

 利用目的についてはよく分かっていませんが、当時は飛鳥盆地や周辺の丘陵部で宮殿・寺院・貴族の邸宅の造営などが相次いで行われたため、その資材の運搬のための道路であるとも考えらます。また、壬申の等乱でこの三道が効果的によく用いられているところから、軍事用に作られたのではないかとも推測されています。

 現在でも、主要な交通路としての役割を果たしており、昔の面影が残っている所が多く存在しています。