訓読 >>>
ま愛(かな)しみさ寝(ね)に我(わ)は行く鎌倉の水無瀬川(みなのせがは)に潮(しほ)満つなむか
要旨 >>>
あの子が可愛いので共寝しに行こうと思うが、鎌倉のあの水無瀬川は、今ごろ潮が満ちていることだろうか。
鑑賞 >>>
相模の国(神奈川県)の歌。「ま愛しみ」の「ま」は、接頭語。「さ寝」は、共寝の慣用語。「水無瀬川」は、鎌倉市の稲瀬川。現在は徒歩でも簡単に割られる小さな川ですが、この時代には海岸線がずっと陸地に入り込んでおり、もっと大きな川だったかもしれません。海岸近くに住む恋人たちにとって、潮の干満が大きな関心事だったことが窺えます
なお、「東歌」の特色の一つとして、この歌のように、男女の性行為を直接に意味する「寝」の語が用いられている点が指摘されており(230首中28首)、風雅を気取らないストレートな表現が、都および都周辺の歌とは大きく異なっています。
巻第14の編纂者
巻第14の編纂者が誰かについては諸説あり、佐佐木信綱は、藤原宇合(不比等の第3子)が常陸守だった時に属官として仕え、東国で多くの歌を詠んだ高橋虫麻呂だとしています。ただ、東歌の編纂は、虫麻呂一人の仕事ではなく、のちにそれに手を加えた人のあることが推量され、その人を大伴家持とする説もあります。一方、この巻に常陸の作の多いことも認められるが、上野の国の歌はさらに多く、その他多くの国々の作を、常陸に在任したというだけで虫麻呂の編纂と断ずることはできないとの反論もあり、その上野国に関連して、和銅元年(708年)に上野国守となった田口益人(たぐちのますひと:『万葉集』に短歌2首)と見る説もあります。さらには、これら個人の仕事ではなく、東国から朝廷に献じた「歌舞の詞章」だという説もあります。