訓読 >>>
3355
天(あま)の原(はら)富士の柴山(しばやま)木(こ)の暗(くれ)の時(とき)ゆつりなば逢はずかもあらむ
3356
富士の嶺(ね)のいや遠長(とほなが)き山道(やまぢ)をも妹許(いもがり)とへば気(け)によばず来(き)ぬ
3357
霞(かすみ)ゐる富士の山びに我(わ)が来(き)なばいづち向きてか妹(いも)が嘆(なげ)かむ
要旨 >>>
〈3355〉空に向かって聳え立つ富士の柴山(雑木林)に日暮れ時がやってきた。この約束の時を逃したら、もう彼女に二度と逢えなくなるのではなかろうか。
〈3356〉富士の嶺のはるばる遠く長い山道も、愛しいお前さんの許へと思えば、少しも苦しいとは思わずに来られるよ。
〈3357〉霞のかかる富士の山裾に私が入ってしまったら、妻はどちらの方に向かって嘆き悲しむことだろうか。
鑑賞 >>>
駿河の国(静岡県中央部)の歌。「駿河」の名の由来は、流れが速く鋭い富士川にちなんだという説があります。3355の「天の原」は、富士山の所在の形容で、「富士」の枕詞。「柴山」は、富士山麓の樹林地帯のこと。上2句は「暗(夕暮れ)」を導く序詞。「ゆつりなば」は、移ってしまうと。「逢はずかもあらむ」は、もう逢うことができなくなるのではなかろうか。文芸評論家の山本憲吉はこの歌について、「嘱目のものを手当たり次第に取り入れていって、のんびりと歌の主題に行き当たった感じである。それが急転して、下二句のすっきりした抒情になっている。上下渾然と融け合わないで、不器用につながって、かえって断載面の面白さを見せている」と言っています。
3356の「富士の嶺」は、山麓の丘陵をも含めて言ったもの。「妹許」は、妹の許。「とへば」は「と言へば」の約。「気によばず」は、呻き声も立てず、少しも苦しいとは思わず。まさに「惚れて通えば千里も一里」を言い表した歌です。
3357の「霞ゐる」は、霞がかかっている。「霞立つ」の対語で、霞がかかって動かずにいる状態を言ったもの。「山び」は、山の周り。「向きてか」の「か」は、疑問。「嘆かむ」の「む」は推量の助動詞「む」の連体形で、「か」の係り結び。富士の裾を通って遠くへ旅をしようとする男が、その妻と別れる際に、妻を隣れんで詠んだ歌ですが、「旅に出る人の吟詠ではなく、むしろ後朝の述懐と見るべきである」との見方もあります。
なお、東歌に詠まれる富士山について、文学者の犬養孝は次のように述べています。「赤人の富士の歌は天下にきこえているし、富士は誰が見ても崇高・雄大・清浄のすばらしい山と思われがちだが、それはあくまで旅の人の心情か、遠く離れて生活する人の、ながめられた心情であって、富士とともに生活する人にとっては、すばらしいと思うより前に、朝夕に親しい山、何よりも生活の場となる貴重な山である。富士の山麓に生活する人にとっては、山の秀麗な姿よりも、山麓の樹林帯やラバの崩れの裾野や噴火や雪の降り方こそ関心の中心であって、赤人のように崇高美をたたえたり、富士を美の対象とした歌は一首もない」。まさに土着の人々の営みを見つめる山、土地に息づく人々の思いとともにある山であったことが分かります。
巻第14の編纂者
巻第14の編纂者が誰かについては諸説あり、佐佐木信綱は、藤原宇合(不比等の第3子)が常陸守だった時に属官として仕え、東国で多くの歌を詠んだ高橋虫麻呂だとしています。ただ、東歌の編纂は、虫麻呂一人の仕事ではなく、のちにそれに手を加えた人のあることが推量され、その人を大伴家持とする説もあります。一方、この巻に常陸の作の多いことも認められるが、上野の国の歌はさらに多く、その他多くの国々の作を、常陸に在任したというだけで虫麻呂の編纂と断ずることはできないとの反論もあり、その上野国に関連して、和銅元年(708年)に上野国守となった田口益人(たぐちのますひと:『万葉集』に短歌2首)と見る説もあります。さらには、これら個人の仕事ではなく、東国から朝廷に献じた「歌舞の詞章」だという説もあります。
※ 参考文献はこちらに記載しています。⇒『万葉集』について