- あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る(巻第1-20)~額田王
- 紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑにあれ恋ひめやも(巻第1-21)~大海人皇子
- 河上のゆつ岩群に草むさず常にもがもな常処女にて(巻第1-22)~吹黄刀自
- うつせみの命を惜しみ波に濡れ伊良虞の島の玉藻刈り食む(巻第1-24)~麻続王
- 春過ぎて夏来るらし白妙の衣乾したり天の香具山(巻第1-28)~持統天皇
- 楽浪の志賀の唐崎幸くあれど大宮人の船待ちかねつ(巻第1-30)~柿本人麻呂
- 楽浪の志賀の大わだ淀むとも昔の人にまたも逢はめやも(巻第1-31)~柿本人麻呂
- 古の人に我れあれや楽浪の古き京を見れば悲しき(巻第1-32)~高市黒人
- 山川も寄りて奉ふる神ながらたぎつ河内に船出するかも(巻第1-39)~柿本人麻呂
- 潮騒に伊良虞の島辺こぐ船に妹乗るらむか荒き島廻を(巻第1-42)~柿本人麻呂
斎藤茂吉(1882年~1953年)は大正から昭和前期にかけて活躍した歌人(精神科医でもある)で、近代短歌を確立した人です。高校時代に正岡子規の歌集に接していたく感動、作歌を志し、大学生時代に伊藤佐千夫に弟子入りしました。一方、精神科医としても活躍し、ドイツ、オーストリア留学をはじめ、青山脳病院院長の職に励む傍らで、旺盛な創作活動を行いました。
子規の没後に創刊された短歌雑誌『アララギ』の中心的な推進者となり、編集に尽くしました。また、茂吉の歌集『赤光』は、一躍彼の名を高らかしめました。その後、アララギ派は歌壇の中心的存在となり、『万葉集』の歌を手本として、写実的な歌風を進めました。1938年に刊行された彼の著作『万葉秀歌』上・下は、今もなお版を重ねる名著となっています。