大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

明日香の清御原の宮に・・・巻第2-162

訓読 >>>

明日香(あすか)の 清御原(きよみ)の宮に 天(あめ)の下 知らしめしし やすみしし 我(わ)が大君(おほきみ) 高照らす 日の御子(みこ) いかさまに 思ほしめせか 神風(かむかぜ)の 伊勢の国は 沖つ藻も 靡(な)みたる波に 潮気(しほけ)のみ 香(かを)れる国に 味凝(うまこ)り あやにともしき 高照らす 日の御子

 

要旨 >>>

 明日香の清御原の宮で天下を治められた我が大君、高く天上を照らし給う日の御子は、どうお思いになられて、神風の吹く伊勢の国の、沖の藻が漂い、潮気ばかりが香る国に(おいで遊ばしたのか)、言い様もなくお慕わしい日の御子よ。

 

鑑賞 >>>

 題詞に「天武天皇崩御した8年後(693年)の9月9日、御斎会(ごさいえ)の夜に夢の中で詠み覚えた御歌」また「古歌集の中に出づ」とある歌です。9月9日は天武天皇の忌日にあたります。御斎会は、僧尼を集めて天皇の御冥福を祈る法会。実際には、夢の中で霊と対話する霊媒師のような人がいて、その者が持統天皇に代わって詠んだ歌ではないかともいわれます。あるいは、柿本人麻呂の代作と推測する向きもあるようです。

 「明日香の清御原の宮」は、天武天皇から持統天皇にわたっての皇居。ここは、天武天皇の皇居としていわれています。「天の下」は、天下。「知らし」は「知る」の敬語で、支配する意。「やすみしし」「高照らす」「神風の」は、それぞれ「我が大君」「日の御子(天皇のこと)」「伊勢」の枕詞。「沖つ藻」は、沖の藻。「つ」は、上代のみに用いられた古い連体格助詞。「靡みたる」は、連なっている。「味凝り」の「味」は「味酒」と同じく賞美の語、「凝り」は織物の織りで、美しい織物の意。同じ意の「綾(あや)」と同音の「あやに」に掛かる枕詞。「あやに」は無性に、言いようもなく。「ともし」は、心引かれる。

 なお、天皇を賛辞する最初の8句と最後の4句に挟まれた中間部は、天皇と関係の深かった伊勢国の状態を精細に言い、何事かをあらわそうとするように見えて、肝心の事柄について何も触れられていません。そのため、語句の脱漏があるのではないか、あるいは「香れる国に」の下に、上掲の解釈のように「そんな国においで遊ばしたのか」の意を補う、または壬申の乱の際に皇后とともに伊勢の桑名にいられたことがあるので、そのことではないか、などの見方があります。

 

 

 

天武天皇の信仰

 仏教を篤く信じた天武天皇は、諸国に金光明経や仁王経を講ぜしめたり、薬師寺を建立しました。685年には、大和法起寺に三重塔を完成させ、しかも全国の家ごとに仏壇を作って仏像を拝むように命じました。

 さらに同じ685年に、伊勢神宮式年遷宮を決定しました。式年遷宮とは、正遷宮、つまり定期的に神宮を建て直すことであり、この定めに従って、持統天皇の治世の690年に第1回の式年遷宮が行われました。それ以来、今日までの約1300年間(最近のものは2013年の第62回正遷宮)、連綿と続けられています。

 神宮を20年ごとに作り替えるようになった理由は、おそらくその屋根が茅葺きのため、鳥や鼠の巣ができたり雨漏りしたりするためとされますが、まさか八咫鏡(やたのかがみ)が祀られている上に屋根職人が上がるわけにもいかないので、全部建て直すより他なかったのかもしれません。

 しかし、この時代にはすでに屋根瓦は使われていましたから、茅葺きをやめて瓦にすれば何のことはなかったのです。はるかに耐久性にすぐれた社殿が容易に造れたはずです。ところが、天武天皇は敢えてそうしませんでした。あちこちに屋根瓦の寺社がありながら、神宮は前史の建築様式どおりに建てることに拘ったのです。

 天武天皇伊勢神宮のみならず、日本じゅうの神社の修理も命じました。仏を敬う一方で、カミも平等に扱ったのです。本来なら、こんな仏教信者がいたらお釈迦さまも真っ青でしょう。しかし、この天武天皇的な発想は、お盆にはお寺参りをし、クリスマス・パーティーを催し、新年には神社に出かけるという、現代に続くふつうの日本人のものです。

 日本の神社のカミは、いわば日本人の祖先であり、神社をお参りするのは血の繋がりという事実を確認するという行為でもあります。私たちが先祖から生まれたというのは確かな事実であり、仏教やキリスト教を信じるのは信仰です。事実と信仰が決して相容れないものでないことは、すでに天武天皇が示していると言えます。