訓読 >>>
3976
咲けりとも知らずしあらば黙(もだ)もあらむこの山吹(やまぶき)を見せつつもとな
3977
葦垣(あしがき)の外(ほか)にも君が寄り立たし恋ひけれこそば夢(いめ)に見えけれ
要旨 >>>
〈3976〉たとい咲いていようとも、知らないでいたならば何とも思いもしないでいように、この山吹を見せてはいたずらに私を嘆かせる。
〈3977〉我が家の葦垣の外にあなたがお立ち寄りになり、私を恋い慕って下さったからこそ、夢に現れたのですね。
鑑賞 >>>
大伴家持の歌。天平19年(747年)3月、病床にあった大伴家持に、大伴池主から山吹の花を添えて贈られた歌(3973~3975)に対しての挨拶の歌。この歌の前に次のような意味の序文と七言詩(内容割愛)が添えられています。――昨夕(3月4日)のお使いで、幸いにも晩春遊覧の詩を下さり、今朝(3月5日)の重ねてのお便りでは、ありがたくも相招望野の歌を頂きました。ひとたび立派な詞章を拝見するや、次第にふさいだ気持が晴れ、続けて優れた歌を口ずさみますと、すっかり憂愁も消え去りました。この風光を眺めて愛でる詩歌でなくて、誰が心を晴れやかにすることができましょうか。ただし私は、生まれつき素質がなく、愚かな心は磨きようがありません。筆を執っても文章が書けず、穂先を噛んで毛をだめにし、硯に向かっても書けずに墨の水の乾くのも忘れるほどです。一日中あれこれ目移りして心が定まらず、文章を綴ることができません。文章が書けるというのは生まれつきのもので、学んでできることではありません。どうして字を探し韻を踏んで、あなたのすぐれた詩に唱和することができましょうか。さて、田舎の子供たちに聞いたところでは、昔の人は人からものを言われて答えないということはないと申します。そこでちょっと拙い詩を作り、謹んでお笑い種にあてさせて頂きます。――
3976の「咲けりとも」は、咲いていたとしても。「黙もあらむ」は、黙ってもいられよう、何も思わずにいられよう。「もとな」は、むやみに、いたずらに。池主から贈られた歌と美しい山吹とを見つつ、ひとしお深く嘆いている歌です。この歌は、古歌の「咲けりとも知らずしあらば黙然もあらむ此の秋芽子を見せつつもとな」(巻第10-2293)によっており、その「秋芽子」を「山吹」と変えたものになっています。
3977の「葦垣」は、葦の茎を編んで作った粗末な垣根のこと。「恋ひけれこそば」は、恋い慕ったからこそ。 「こそば」は、強い理由(〜だからこそ、まさに〜なので)を表す強調の語法。「夢に見えけれ」の「けれ」は「こそ」の係り結びで、「夢に見えたのだなあ」という強い納得と感動を表します。ここは家持の夢に池主が現れたことを言っており、相手が自分を思うと魂が感応して夢に見えるという俗信を踏まえています。

大伴池主の作歌活動
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都での活動期(天平10年〜)
池主が文人活動として姿を見せるのは、天平10年(738年)10月に行われた橘奈良麻呂結集の宴(巻第8-1590)が最初です。この頃、春宮坊少属従七位。奈良麻呂を囲む文学的集合への参加は、池主の生涯における人脈と作歌背景の基礎となりました。 -
越中国赴任期(天平18年〜19年)
越中掾(えっちゅうのじょう:国司の三等官)として着任していた池主のもとへ、天平18年(746年)8月に大伴家持が国守として赴任します。8月7日の家持歓迎の宴(巻第17-3943~3956)以来、家持との親交が深まり、二人の間に多くの歌々が取り交わされました。この越中での数年間が池主の作歌活動の黄金期となりました。 -
越前国への遷任と帰京後(天平20年〜天平勝宝年間)
天平20年(748年)頃に越前掾に転任した後も、山(礪波山)を隔てた家持との間で、ホトトギスを題材にした名作など多くの来報歌が取り交わされました(巻18-4073〜4075など)。さらに都へ戻った後も、高円山への登攀歌(巻20-4295)や、家持邸で開かれた大伴氏族の宴での歌(巻20-4300)など活発な創作を行いました。
しかし、天平勝宝9年(757年)、橘奈良麻呂の乱(クーデター未遂事件)に連座して捕縛され、その後の消息は絶たれることとなりました。杖下に死を遂げたものと見られています。
※ 参考文献はこちらに記載しています。⇒『万葉集』について
