大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

昼見れど飽かぬ田子の浦・・・巻第3-296~297

訓読 >>>

296
廬原(いほはら)の清見(きよみ)の崎の三保(みほ)の浦(うら)のゆたけき見つつ物思(ものも)ひもなし

297
昼(ひる)見れど飽(あ)かぬ田子(たご)の浦(うら)大君(おほきみ)の命(みこと)畏(かしこ)み夜(よる)見つるかも

 

要旨 >>>

〈296〉廬原の清見の崎の三保の浦、そのゆったりとした景色を見ていると、何の物思いも起こらない。

〈297〉昼間に見ても飽きることのない田子の浦を、大君の命を承り、こうして夜になって見ることになった。

 

鑑賞 >>>

 田口益人大夫(たぐちのますひとだいぶ)が上野(かみつけ:群馬県)の国司に赴任する途中に、駿河清見の崎で作った歌。「大夫」は、四位・五位の人への敬称で、田口益人は、和銅元年(708年)に従五位上で上野守に任じられました。最終官位は、正五位上(715年)、養老6年(723年)に死去。『万葉集』には2首のみ。この年(和銅元年)の2月、当時の政情の行き詰まりや社会不安の高まりのなかで、平城遷都のことが布告され、三月には百官国司らの大異動が行われたのです。益人が上野国へ赴任するのに、東山道ではなく東海道を下っているのは、信濃国を通過するのがすこぶる困難だったからと見られます。

 296の「廬原」は、静岡市清水区。古代の豪族廬原氏の地。「清見の崎」は、同市清水区興津清見寺町の海岸。「三保の浦」は、三保の松原付近の入江。「ゆたけき」は、ゆったりしている。上2句が助詞「の」の多用により諧調をなしており、文学者の犬養孝は次のように述べています。「この歌の上三句は、くどく解説すれば”廬原の清見の崎から見わたされる三保の浦の・・・”となってせっかくの景観も死んでしまうが、歌では、地名を助詞の『の』を五回かさねて連接し、あたかも移動風景のようにして、この岸もかの崎も空間的に映発しあうように生かされ、その上『の』の音のつみかさねの律動から、ゆったりとした景も情もうち出されてきて、清見の崎の好風とともに千古にひびく”物思ひもなし”となっている」。

 297の「田子の浦」は、清見の崎より東、富士川より西の、静岡市清水区蒲原から由比町にかけての海岸で、現在と位置が異なります。「大君の命畏み」は、ここは官命による旅である意。『延喜式』では、官吏が任国に着くまでの日数がこまかく定められていた(上野国までは14日とされていた)ので、楽しみにしていた田子の浦をゆっくり見るゆとりはなく、仕方なく夜に通ることになったと言っています。かなりの強行を強いられる日程だったと見えます。「かも」は、詠嘆。清見の崎から田子の浦まではさほどの距離はないのですが、薩埵峠(さったとうげ)越えなどに意外に時間を要したのでしょう。前の歌とは正反対の状況下にあります。

 

 

 

※ 参考文献はこちらに記載しています。⇒『万葉集』について

『万葉集』掲載歌の索引