大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

さす竹の大宮人の家と住む・・・巻第6-955~956

訓読 >>>

955
さす竹の大宮人(おほみやひと)の家と住む佐保(さほ)の山をば思ふやも君

956
やすみしし我が大君(おほきみ)の食(を)す国は大和もここも同じとぞ思ふ

 

要旨 >>>

〈955〉大宮人が住んでいる所の、佐保山のことを懐かしく思い起こしませんか、わが君。

〈956〉わが天皇が治めていらっしゃる国は、大和もここ大宰府も同じだと思う。

 

鑑賞 >>>

 955は石川足人(いしかわのたりひと)の歌、956はそれに大伴旅人が答えた歌。石川足人は奈良時代の官吏で、このとき旅人の部下である大宰少弐(だざいのしょうに: 大宰府の次官)の役職にありました。

 955の「さす竹の」は「大宮人」の枕詞。その意は諸説あって定まりませんが、芽をふいて伸びる意で、若竹の勢よく清々しいごとくと大宮を讃えたものとの見方が有力です。「大宮人」は、宮廷に勤める人のこと。「家と住む」は、家として住んでいる。「佐保の山」は、奈良市の西北部にある丘陵。廷臣の邸宅が多く、大伴家の邸も古くからそこにありました。「君」は大宰帥(だざいのそち)の大伴旅人をさします。老いて久しく大宰府の辺境の地にとどまっている旅人をいたわり、慰めの気持ちをもって問いかけた歌です。

 ただ、「大宮人の家と住む」の「家」は、旅人の家を指しているのは間違いのないところですが、それなら単に「君が住む佐保」と言えばよいものを、このような持って回った言い方をしている不自然さが指摘されているところです。何か他のものが含まれているのではないかというので、藤原氏の陰謀によって自死させられた長屋王の存在をも匂わせているのではないかとする見方があります。長屋王の邸宅も同じ佐保にありましたから、亡き王への思慕をも問いかけたものかもしれません。

 石川足人の歌は『万葉集』にはこの1首のみですが、神亀5年(728年)に足人が遷任するに際して、筑前の国の蘆城(あしき)の駅(うまや)で送別の宴を開いたときの作者未詳歌が、巻第4-549~551に載っています。

 956の「やすみしし」は「わが大君」の枕詞。「食す」は、国を支配する意で慣用された語。足人が旅人の私的な面に言及したのに対し、旅人はそれを斥け、あくまで公的生活の面に力点を置いて答えています。いわば立場上の公式見解といってよいものです。窪田空穂は、「旅人の歌は、歌に遊ぼうとの意識をもってのものは別だが、その他のものは、率直に淡泊に実情を詠んでおり、これなどもその範囲のものである。人を動かす力のある歌である」と述べています。

 

 

大伴旅人の略年譜

710年 元明天皇の朝賀に際し、左将軍として朱雀大路を行進
711年 正五位上から従四位下
715年 従四位上中務卿
718年 中納言
719年 正四位下
720年 征隼人持説節大将軍として隼人の反乱の鎮圧にあたる
720年 藤原不比等が死去
721年 従三位
724年 聖武天皇の即位に伴い正三位
727年 妻の大伴郎女を伴い、太宰帥として筑紫に赴任
728年 妻の大伴郎女が死去
729年 長屋王の変(2月)
729年 光明子立后
729年 藤原房前に琴を献上(10月)
730年 旅人邸で梅花宴(1月)
730年 大納言に任じられて帰京(12月)
731年 従二位(1月)
731年 死去、享年67(7月)

『万葉集』掲載歌の索引

大伴旅人の歌(索引)