訓読 >>>
963
大汝(おほなむち) 少彦名(すくなひこな)の 神こそば 名付(なづ)けそめけめ 名のみを 名児山(なごやま)と負(お)ひて 我(あ)が恋の 千重(ちへ)の一重(ひとへ)も 慰(なぐさ)めなくに
964
我(わ)が背子(せこ)に恋ふれば苦し暇(いとま)あらば拾(ひり)ひて行かむ恋忘貝(こひわすれがひ)
要旨 >>>
〈963〉大国主命(おおくにぬしのみこと)と少彦名の神が名付けられたという、名児山。でも、その名児山のように心はなごまず、私の苦しい恋心を千に一つも慰めてくれないではないか。
〈964〉あの方を恋しく思えば思うほど苦しい。もしも浜に立ち寄る暇があったら拾っていきたい、辛い恋を忘れさせてくれるというあの忘れ貝を。
鑑賞 >>>
大伴坂上郎女の歌。坂上郎女は、旅人の妻が亡くなった後に、大宰府の旅人の許に来ていましたが、天平2年(730年)12月に旅人が大納言に任じられ帰京するのに先立って、11月に京に向けて出立しました。963は、その途中、筑前国の名児山(福岡県福津市と宗像市の市境の山)という山を越えた時に作った歌、964は、都へ向かう海路で浜の貝を見て見て作った歌です。
963の「大汝」は大国主神、「少彦名」は『古事記』によれば神産巣日神(かみむすびのかみ)の子とされ、大国主神とともに国造りに携わったとされる神。集中では、二神は必ず一対の存在として歌われています。「名付けそめけめ」の「けめ」は、過去推量已然形。名児山の「名児(なご)」と「慰(な)ぐ」(慰めの意)を掛けています。「慰めなくに」の「な」は打消の助動詞、「なく」はそのク語法。「に」は詠嘆の終助詞。「名のみを」以下は、巻第7-1213の「名草山ことにしありけり吾が恋ふる千重の一重もなぐさめなくに」を踏まえているとされます。
964の「我が背子」は、兄の旅人を指すという説と、特定の人があるわけではないとする説があります。「恋忘貝」は、二枚貝の片方または鮑貝。持っていると、恋の切なさを忘れられるという言い伝えがありました。この歌も、巻第7-1147の「暇あらば拾ひに行かむ住吉の岸に寄るとふ恋忘貝」という古歌によっています。
これら2首は「恋仕立て」にはなっていますが、旅人への思いを歌った気配があります。旅人の傍らにあって家刀自として振る舞い、また家持の養育にも当たった郎女としては、一族の消長を荷う旅人の健否は気がかりだったはずで、わずかな間でも離れることを憂えたのではないでしょうか。大宰府に赴任して早々に妻を亡くし、その2年後には脚に瘡を生じて遺言をするほどに重篤になった旅人は、幸い回復したものの、完全に癒えたわけではなかったようで、都に帰って7か月後に亡くなりました。
大伴坂上郎女の略年譜
大伴安麻呂と石川内命婦の間に生まれるが、生年未詳
16~17歳頃に穂積皇子に嫁す
715年、穂積皇子が死去。その後、宮廷に留まり命婦として仕えたか。
藤原麻呂の恋人になるが、しばらくして別れる
724年頃、異母兄の大伴宿奈麻呂に嫁す
坂上大嬢と坂上二嬢を生む
727年、異母兄の大伴旅人が太宰帥になる
728年頃、旅人の妻が死去。坂上郎女が大宰府に赴き、家持と書持を養育
730年 旅人が大納言となり帰郷。郎女も帰京
731年、旅人が死去。郎女は本宅の佐保邸で刀自として家政を取り仕切る
746年、娘婿となった家持が国守として越中国に赴任
750年、越中国の家持に同行していた娘の大嬢に歌を贈る(郎女の最後の歌)
没年未詳