大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

焼津辺に我が行きしかば・・・巻第3-284

訓読 >>>

焼津辺(やきづへ)に我(わ)が行きしかば駿河(するが)なる阿倍(あへ)の市道(いちぢ)に逢ひし子らはも

 

要旨 >>>

焼津のあたりに私が行ったとき、駿河の阿倍の市で偶然出逢ったあの若い女は、今頃どうしていることか。

 

鑑賞 >>>

 春日蔵首老(かすがのくらびとおゆ)の歌。春日蔵首老は、弁記(べんき)という法名の僧だったのが、朝廷の命により還俗させられ、春日倉首(かすがのくらのおびと)の姓と老の名を賜わったとされる人物です。『懐風藻』にも詩1首、『万葉集』には8首の歌が載っています(「春日歌」「春日蔵歌」と記されている歌を老の作とした場合)。

 「焼津辺」は、静岡県焼津市日本武尊が賊に襲われ火を放って難を逃れたという名高い事蹟のあった地で、元は「ヤキツ」だったようです。「駿河なる」は、駿河にある。「阿倍」は、国府のあった静岡市。「市道」は、歌垣が行われた所。「子らはも」の「ら」は、親愛などの情を示す接尾語。「は」は係助詞、「も」は詠嘆。「はも」は、眼前にないものを思いやる場合に用います。公務によって当地を訪れた時の歌とみられますが、「焼津」「駿河」「阿倍」という3つの地名を取入れ、それらが「児らはも」に集中されているので、濃い地域色とともに、その土地への好感をあらわした歌となっています。また、阿倍の市で出逢った女に心惹かれたのは、市ではすばらしい女と出逢い、共寝するものだという幻想があったからでしょう。

 

 

 

歌垣について

 歌垣は、もともとは豊作を祈る行事で、春秋の決まった日に男女が山や市(いち)に集まり、歌舞や飲食に興じた後、性の解放、すなわち乱婚が許されました。昔の日本人は性に関してはかなり奔放で、独身者ばかりではなく、夫婦で参加して楽しんでいたようです。歌垣が行われた場所としては、常陸筑波山や大和の海柘榴市(つばいち)が有名です。東国では嬥歌(かがい)と呼ばれました。

 『常陸風土記』にも筑波山の嬥歌会のことが書かれており、それによると、足柄山以東の諸国から男女が集まり、徒歩の者だけでなく騎馬の者もいたとありますから、遠方からも大層な人数が、胸をわくわくさせて集まる一大行事だったことが窺えます。また、土地の諺も載っており、「筑波峰の会に娉(つまどひ)の財(たから)を得ざる者は、児女(むすめ)と為(せ)ず」、つまり「筑波峰の歌垣で、男から妻問いのしるしの財物を得ずに帰ってくるような娘は、娘として扱わない」というのですから驚きます。

『万葉集』掲載歌の索引