大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

この月は君来まさむと・・・巻第13-3344~3345

訓読 >>>

3344
この月は 君(きみ)来(き)まさむと 大船(おほふね)の 思ひ頼みて いつしかと 我(わ)が待ち居(を)れば 黄葉(もみちば)の 過ぎてい行くと 玉梓(たまづさ)の 使ひの言へば 蛍(ほたる)なす ほのかに聞きて 大地(おほつち)を 炎(ほのほ)と踏みて 立ちて居(ゐ)て 行くへも知らず 朝霧(あさぎり)の 思ひ迷(まと)ひて 丈(つゑ)足らず 八尺(やさか)の嘆き 嘆けども 験(しるし)をなみと いづくにか 君がまさむと 天雲(あまくも)の 行きのまにまに 射(い)ゆ鹿猪(しし)の 行きも死なむと 思へども 道の知らねば ひとり居(ゐ)て 君に恋ふるに 音(ね)のみし泣かゆ

3345
葦辺(あしへ)行く雁(かり)の翼(つばさ)を見るごとに君が帯(お)ばしし投矢(なげや)し思ほゆ

 

要旨 >>>

〈3344〉この月はあの人がお帰りになるだろうと、大船に乗ったようにあてにして、いつかいつかと私は待ち焦がれていたのに、黄葉が散るように世を去って行ったと、あの人のお言葉を運び続けた使いが言うので、蛍火のようにちらっと聞いただけで、炎を踏むように大地を踏み、立ったり座ったりして途方に暮れ、朝霧のように思い乱れて、大きな溜め息をついて嘆いても何の甲斐もなく、どこかにあの人はいらっしゃるだろうと、天雲のように行くに任せて、手負いの鹿猪のように行き倒れになろうとも出かけようと思うけれども、道を知らないので、一人いて、あの人を思って声をあげて泣いてばかりいる。

〈3345〉葦辺を飛んでいく雁の翼を見るたびに、あの人が負っていらした投げ矢が思い出される。

 

鑑賞 >>>

 任期を終えて帰ってくるはずの地方官の妻が、突然夫の死を知らされた時の、激しい動揺をうたった歌とみられます。3344の「大船の」「黄葉の」「玉梓の」「蛍なす」「朝霧の」「丈足らず」は、それぞれ「思ひ頼み」「過ぎ」「使ひ」「ほのかに」「迷ひ」「八尺」の枕詞。「八尺の嘆き」は、きわめて長い嘆き。「験をなみと」は、甲斐がないので。「天雲の」は、ここでは比喩。「射ゆ猪鹿の」は「行きも死なむ」の枕詞。3345の「投矢」は、手で投げる矢。雁の翼を見て、夫の矢の矢羽を思い出しています。

 なお、左注に「右二首、但し或いは云はく、この短歌は、防人の妻の作りし所なり。然らば長歌も此と同作なりと知るべしといへり」とあり、防人の妻の作ではないかという説があります。しかしながら、巻第20に収められている防人の妻の歌のような真摯さはなく、長歌では枕詞が異常に多く、あまりに技巧に満ちており、柿本人麻呂の「泣血哀慟歌(巻第2-207)」の中のそのままを使っています。反歌も通りいっぺんで迫真性に欠けており、土屋文明は、「別居の夫を失った妻の悲嘆を表現する為に、人麻呂を手本として、それから転訛し、成立した民謡であらう」と述べています。

 

 

 

土屋文明

 明治23年(1890年)生まれの歌人・国文学者。東大哲学科卒。伊藤左千夫に師事し、斎藤茂吉とともに歌誌『アララギ』の編集に参加。社会化された民衆の生活の内面を表そうとする歌風で、歌集に『往還集』(1930年)、『山谷集』(1935年)などがある。また『万葉集』の研究でも知られ、著述に『万葉集私注』(1949~56年)などがある。