訓読 >>>
167
天地(あめつち)の 初めの時の ひさかたの 天(あま)の河原(かはら)に 八百万(やほよろづ) 千万神(ちよろづかみ)の 神(かむ)集(つど)ひ 集ひいまして 神(かむ)分(わか)ち 分ちし時に 天(あま)照らす 日女(ひるめ)の命(みこと) 天(あめ)をば 知らしめすと 葦原(あしはら)の 瑞穂(みづほ)の国を 天地の 寄り合ひの極(きは)み 知らしめす 神(かみ)の命(みこと)と 天雲(あまくも)の 八重(やへ)かき別(わ)けて 神下(かむくだ)し いませまつりし 高照らす 日の御子(みこ)は 飛ぶ鳥の 清御原(きよみ)の宮に 神(かむ)ながら 太敷(ふとし)きまして 天皇(すめろき)の 敷きます国と 天の原 岩戸(いはと)を開き 神上(かむあ)がり 上りいましぬ 我(わ)が大君(おほきみ) 皇子(みこ)の命(みこと)の 天(あめ)の下 知らしめしせば 春花(はるはな)の 貴(たふと)くあらむと 望月(もちづき)の 満(たたは)しけむと 天の下 四方(よも)の人の 大船(おほふね)の 思ひ頼みて 天(あま)つ水 仰ぎて待つに いかさまに 思ほしめせか つれもなき 真弓(まゆみ)の岡に 宮柱(みやばしら) 太敷(ふとし)きいまし みあらかを 高知りまして 朝言(あさこと)に 御言(みこと)問はさず 日月(ひつき)の まねくなりぬれ そこ故(ゆゑ)に 皇子(みこ)の宮人(みやひと) 行くへ知らずも
168
ひさかたの天(あめ)見るごとく仰ぎ見し皇子の御門(みかど)の荒れまく惜(を)しも
169
あかねさす日は照らせれどぬばたまの夜(よ)渡る月の隠らく惜(を)しも
170
嶋の宮まがりの池の放(はな)ち鳥(とり)人目(ひとめ)に恋ひて池に潜(かづ)かず
要旨 >>>
〈167〉天地の初めの開闢の時、天の河原に多くの神がお集まりになって、統治する領分をお分けになったその時に、天照らす日女の命は天上をお治めになることとして、葦原の瑞穂の国を、天と地の寄り合う果てまでもお治めになる神として、幾重にも重なる天雲をかき分けてお下しなされた日の神の御子(天武天皇)は、明日香の浄御原の宮に、神そのままにご統治になり、天皇の御支配になるべき国であるとして、天の原の岩戸を開いて、そこへと上って行ってしまわれた。我らの大君の皇子の命(草壁皇子)が、天下をお治めになる世は、春の花のようにめでたくあろうと思い、満月のように満ち足ることであろうと思って、天下の人々みなが、大船に乗ったように思い頼み、天から降る雨を仰いで待つように待ち望んでいたのに、どのようにお思いなされたのであろうか、ゆかりもない真弓の岡に宮柱を太々と立てられ、御殿を高々と営まれて、朝のお言葉もおかけにならず、そうした日や月が多くも重なって来たことである。それがために、皇子に御仕え申している宮人たちは、ただただ途方にくれている。
〈168〉遠く遙かな空を望み見るように、仰ぎ見てきた皇子の宮殿が、これから荒れていくだろうことの悲しさよ。
〈169〉日は照り輝いているけれども、夜空を渡っていく月が雲に隠れて見えないことの悲しさよ。
〈170〉島の宮のまがりの池に放たれた鳥もまた、人の目を恋い慕って、池に潜ろうとしない。
鑑賞 >>>
題詞に「日並皇子尊(ひなみしのみこのみこと)の殯宮(あらきのみや)の時に、柿本朝臣人麻呂の作れる」とある歌。人麻呂はこの時、草壁皇子の宮に仕えた舎人らとともに奉仕したとみられます。「日並皇子尊」は、草壁皇子の皇太子としての尊称で、草壁皇子は、天武天皇亡きあと、皇后(のちの持統天皇)が次代の天皇と恃(たの)んだ、ただ一人の皇子でしたが、わずか28歳の若さで即位することなく薨去しました。「日並」は、日を天皇に喩え、それに並ぶという意の語。「殯宮」は、葬所の近くに設け、臣下らが侍するための宮。草壁皇子に対する殯宮の期間は一年間でした。
167の「ひさかたの」は「天」の枕詞。「八百万千万」は、きわめて数の多いことを表す語。「高照らす」は「日」の枕詞。「日の御子」は、天武天皇。天孫降臨伝承の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に譬えています。「天照らす日女の命」は、天照大御神。「命」は尊称。「知らしめす」は、お治めになる。「葦原の瑞穂の国」は、高天原から呼ぶ日本国の異称。「神上り上りいましぬ」は、天武天皇が高天原へ帰った意。「我が大君皇子の命」は草壁皇子。「春花の」「望月の」「大船の」「天つ水」は、それぞれ「貴くあらむ」「満しけむ」「思ひ頼みて」「仰ぎて待つ」の枕詞。「真弓の岡」は、高市郡明日香村真弓から高取町佐田にわたる地といわれます。「つれもなき」は、何のゆかりもない。「あらか」は、御殿。「まねく」は、数が多い。
歌の構成は大きく二段に分けられ、前半は天地開闢から瓊々杵尊(ににぎのみこと)の降臨、歴代の統治、そして天武天皇の崩御に及び、後半は人々の期待に反して日並皇子が薨去し、殯宮の営まれたことを述べ、皇子の舎人たちの途方に暮れているさまを歌って結びとしています。同じ人麻呂が歌った高市皇子の挽歌に比べ、冒頭の仰々しい割に、皇子自身の生前の功績を述べる部分が貧弱でほとんど無いに等しいため、歌われるほどの事績がなかったからだという意見があります。この歌がどこの場でどのように披露されたのかはっきりしていませんが、一方では荘重かつ華麗な効果を生み出すのに腐心しているあとが窺え、儀礼的な要求が勝っていたということなのかもしれません。
168の「ひさかたの」は「天」の枕詞。169の「あかねさす」「ぬばたまの」は、それぞれ「日」「夜」の枕詞。「日」を天皇に、「月」を皇子に譬えています。170の「島の宮」は、明日香村島庄にあった草壁皇子の宮殿。もと蘇我馬子の邸宅で、『日本書紀』には、「庭の中に池があり、小さな島があったので、人々は馬子を島の大臣とよんでいた」と記されています。馬子の死後は天皇家の離宮となり、皇太子の草壁皇子が住み「島の宮」とよばれていました。「まがりの池」は、湾曲した形による名か。「放ち鳥」は、放し飼いにしてある鳥、あるいは死者が生前飼っていた鳥を放してやること。