大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

山の端にいさよふ月を出でむかと・・・巻第7-1069~1072

訓読 >>>

1069
常(つね)はさね思はぬものをこの月の過ぎ隠(かく)らまく惜(を)しき宵(よひ)かも

1070
大夫(ますらを)の弓末(ゆずゑ)振り起(おこ)し狩高(かりたか)の野辺(のへ)さへ清く照る月夜(つくよ)かも

1071
山の端(は)にいさよふ月を出(い)でむかと待ちつつ居(を)るに夜(よ)ぞ更(ふ)けにける

1072
明日(あす)の宵(よひ)照らむ月夜(つくよ)は片寄りに今夜(こよひ)に寄りて夜(よ)長からなむ

 

要旨 >>>

〈1069〉普段は決して思うこともないのに、目の前の月が空を渡っていき、このまま見えなくなるのが惜しい今夜だ。

〈1070〉勇者が弓の先を振り起こして狩りをする狩高の野辺さえ、清らかに照らす月夜だ。

〈1071〉山の端にいつ顔を出すかと、ためらう月を待っているうちに夜が更けてしまった。

〈1072〉明日の宵に照る月が今夜の方に寄ってきて、今夜の月夜が長くあってほしい。

 

鑑賞 >>>

 「月を詠む」歌。1069の「さね」は、ちっとも、全くの意。「隠らまく」は「隠る」の名詞形で、隠れること。「かも」は、詠嘆。窪田空穂は、「月下で楽しい宴を張っていて、興の尽きないのに月は傾いてきた頃、その席の主人である人が客に対して挨拶として詠んだ歌と思われる」として、「素朴な、おおらかな、品のある歌である」と評しています。

 1070の上2句は「狩高」を導く序詞。「弓末」は、弓を立てた時の上部。「振り起し」は、弓を構える動作。「狩高」は、奈良市東南の高円山あたり。「野辺さへ」の「さへ」は添加の助詞で、作者の立っている所はもとより遠い野辺さえも、の意。

 1071は、月の出を鑑賞するというより、妻の許へ通おうとして月が出るのを待っていた男の歌です。男が女の許に通うのは夜と決まっていましたが、夜であればいつでもいいというのではなく、夜道を照らす月の光が必要でした。さらには、月の妖しい光を浴びることで、不思議な力を身につけることができると考えられていたようです。「いさよふ」は、躊躇している、ためらう意で、月を擬人化しています。

 1072の「月夜」は、月のこと。「片寄りに」は「偏り」で、現在の口語と同じ。明日に照るであろう月が、今夜に寄って加わってほしいという意。「夜長からなむ」は「夜長くあらなむ」で、「あらなむ」は、他に対しての願望。1071・1072は類想の少なくない歌であり、また1072は、1069の歌に答えたような趣きの歌になっています。