訓読 >>>
3817
かるうすは田廬(たぶせ)の本(もと)に我(わ)が背子(せこ)はにふぶに笑(ゑ)みて立ちませり見ゆ
3818
朝霞(あさがすみ)鹿火屋(かひや)が下(した)の鳴くかはづ偲(しの)ひつつありと告げむ子もがも
要旨 >>>
〈3817〉二人で搗(つ)く韓臼(からうす)は田圃の伏屋の中にあり、私の愛しいあなたがにこにこと嬉しそうに立っていらっしゃる。
〈3818〉鹿追い小屋の陰で鳴くカジカガエル、この蛙のように、恋しさに泣きくれて絶えずお慕いしていますと言ってくれる娘子がいたらなあ。
鑑賞 >>>
左注に「河村王(かわむらのおおきみ)が、宴席で琴を弾きながら、まずこの歌を口ずさむのをお決まりの芸としていた」旨の記載があります。従って、必ずしも王自身の作とはいえません。河村王は、『続日本紀』から、宝亀8年に従五位下、同10年少納言、延暦元年阿波守、同7年右の大舎人頭、同8年駿河守、9年従五位上になったと知られます。
3817の「かるうす」は、韓臼か、あるいは意味未詳の枕詞と見て、単に「田圃の伏屋のそばに、私の愛しいあなたがにこにこと嬉しそうに立っていらっしゃる」と解するものもあります。「にふぶに」は、にこやかに。「立ちませり」は「立てり」の敬語。この歌について窪田空穂は、「部落生活をしている若い夫婦間の歌で、・・・夫婦とはいっても人目を忍ぶ仲で、女が白昼男の状態を見るのは稀れなので、男の田中の番小屋で籾を精(しら)げているさまを珍しげにいい、男もまた、女の近く来て立っているのが珍しく、相見て微笑し合った、その微笑の瞬間を捉えて女が歌にしているのである。それは、その微笑の中に説明し難い喜びを感じ合っているので、それをいうのが喜びの気分の全幅の表現だからである。・・・生活をたのしんでいる快い歌である」と述べています。しかし、さまざまな解釈があり、難解な歌です。
3818の「朝霞」は、掛かり方未詳ながら「鹿火屋」の枕詞。「鹿火屋」は、収穫前の田畑を荒らす鹿猪を追うための火を焚く小屋。焚く火から出る煙を、朝霞に見立てているのでしょうか。「かはづ」は、カジカガエル。上3句は「偲ひ」を導く序詞。「もがも」は、願望。蛙の声によって恋人を思い浮かべるというのは、現代の私たちから見れば不思議な感覚のように思えます。なお、上掲の解釈は「告げむ」の主格を娘子としましたが、作者と見る説もあります。2首とも農作業に関わる野小屋に寄せる歌で、この時代、田んぼが住居の近くに必ずあるわけではなく、遠くに田んぼを持っている場合には、耕作地の傍に仮小屋を建てて、そこに住んで農作業をするしかありませんでした。そういう生活が、ここの歌の背景にあります。