大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

天武天皇の御製歌・・・巻第1-27

訓読 >>>

淑(よ)き人のよしとよく見て好(よ)しと言ひし吉野よく見よ良き人よく見

 

要旨 >>>

昔の立派な人々がよく見てよい所だと言った、この吉野をよく見なさい、今の立派な人々よ。

 

鑑賞 >>>

 天武8年(679)5月5日、天武天皇が吉野離宮行幸された時の歌。ここの「淑き人」は、天武天皇持統皇后を寓しており、「良き人」は、同行していた草壁皇子ほか大津高市河嶋忍壁志貴の6皇子を指しています。天皇はこの折に、草壁皇子を次期天皇とし、他の皇子らとともに、千載の忠誠と結束を盟約させました(吉野の誓い)。壬申の乱による自身の即位の経緯から、自分の子たちが同じ事態にならないようにとの狙いがあったとみられます。

 このとき天皇は、異なる母から産まれていても、今後は同母の兄弟のように愛すると言い、衣の襟を開いて6人の皇子を抱擁し、さらに、もしこの誓いを破れば私は死ぬと言って誓ったと伝えられています。この歌は、その後で詠まれた歌で、「よ」が8回も繰り返される言葉遊びになっており、後継者問題にひと区切りがついた安堵感と喜びに溢れているかのようです。持統皇后も同じ誓いを立てており、後に持統天皇として即位してからのたび重なる吉野行幸はここに根ざしているとされます。

 『 万葉集』には「吉野」という地名が数多く出てきており、古来霊力に満ちた神聖な場所とされてきました。『日本書紀』にも、応神天皇行幸を行ったり、雄略天皇が狩りを楽しんだりしたという記事が載っています。天武天皇も、吉野の霊力の恩恵に授かろうとしたのかもしれません。しかしながら結局は、天武天皇が亡くなった後、皇位継承を巡る様々な思惑の中で、この盟約の場にもいた大津皇子が謀反の罪を着せられ処刑されるなど、血なまぐさい争いと悲劇が起こってしまうのでした。
 
 なお、天武天皇があらかじめ定めた皇子の序列は次のようなものでした。

草壁皇子(生年662年、母は天智天皇の皇女の鵜野皇后=持統天皇
大津皇子(生年663年、母は天智天皇の皇女の太田皇女=鵜野皇后の同母姉)
高市皇子(生年654年、母は九州の豪族宗像氏の娘)

 

 

 

中大兄皇子天智天皇)略年譜

645年 中臣鎌足らと謀り、皇極天皇の御前で蘇我入鹿を暗殺(乙巳の変
    叔父の孝徳天皇が即位、中大兄皇子は皇太子に
    異母兄の古人大兄皇子を謀反の疑いで自害に追い込む
646年 孝徳天皇が難波に遷都
    改新の詔
653年 孝徳天皇を置き去りにし、群臣らを率いて大和に戻る
654年 孝徳天皇崩御、母の斉明天皇(皇極)が重祚して即位
658年 有間皇子を謀反の罪で処刑(有間皇子の変)
660年 百済が滅亡
661年 百済救援に派兵しようとするも、筑紫で斉明天皇崩御
663年 白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗
667年 近江大津宮に遷都
668年 天智天皇として即位し、弟の大海人皇子東宮となる(1月)
668年 蒲生野で、宮廷をあげての薬狩りが行われる(5月)
669年 中臣鎌足が死去、前日に藤原姓を与える(10月)
670年 日本最古の全国的な戸籍「庚午年籍」を作成
671年 大友皇子太政大臣に任命(1月)
671年 発病(9月)
671年 大海人皇子を病床に呼び寄せる(10月)
    大海人皇子はその日のうちに出家、吉野に下る
    大友皇子を皇太子とする
672年 崩御(1月)

※ 参考文献はこちらに記載しています。⇒『万葉集』について