大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

久邇の新京を讃むる歌・・・巻第6-1053~1058

訓読 >>>

1053
我が大君(おほきみ) 神の命(みこと)の 高知らす 布当(ふたぎ)の宮は 百木(ももき)盛り 山は木高(こだか)し 落ちたぎつ 瀬の音も清し 鴬(うぐひす)の 来鳴く春へは 巌(いはほ)には 山下(やました)光り 錦(にしき)なす 花咲きををり さを鹿(しか)の 妻呼ぶ秋は 天霧(あまぎ)らふ しぐれをいたみ さ丹(に)つらふ 黄葉(もみち)散りつつ 八千年(やちとせ)に 生(あ)れ付かしつつ 天(あめ)の下 知らしめさむと 百代(ももよ)にも 変るましじき 大宮所(おほみやところ)

1054
泉川(いづみがは)行く瀬の水の絶えばこそ大宮所(おほみやところ)移ろひ行かめ

1055
布当山(ふたぎやま)山なみ見れば百代(ももよ)にも変るましじき大宮所

1056
娘子(をとめ)らが続麻(うみを)懸くといふ鹿背(かせ)の山(やま)時しゆければ都となりぬ

1057
鹿背(かせ)の山(やま)木立(こだち)を繁(しげ)み朝さらず来鳴き響(とよ)もす鴬(うぐひす)の声

1058
狛山(こまやま)に鳴く霍公鳥(ほととぎす)泉川(いづみがは)渡りを遠みここに通はず [一云 渡り遠みか通はずあるらむ]

 

要旨 >>>

〈1053〉我れらが大君、尊い神の命が高々と宮殿を造り営んでおられる布当の宮、この辺りには木という木が茂り、山は鬱蒼として木高い。たぎり落ちる川の瀬の音も清らかだ。ウグイスが来て鳴く春になれば、巌には山裾も輝くほどに、錦をなして花が咲き乱れ、牡鹿が妻を呼んで鳴く秋になると、空がかき曇ってしぐれが降り、紅く色づいた木の葉が散り敷く。こうしてこの地には幾千年ののちまで、御子たちの生誕をお続けになられつつ天下をお治めになろうと、百代の後までも変わるはずもない、この大宮所よ。
 
〈1054〉泉川、この川の行く瀬の水が絶えるようなことでもあれば、大宮所もさびれゆくかもしれないけれど。

〈1055〉布当山、この山の連なりを見れば、百代ののちまで続いていくに相違ない大宮所だ。

〈1056〉娘子たちが、麻を紡いだ糸を掛ける道具の桛(かせ)という名前を持った、鹿背の山も、時が移り変わってとうとう都になった。

〈1057〉鹿背の山の木立が茂っているので、朝になるたびにやって来て辺りに声を響かせて鳴く、ウグイスの声よ。

〈1058〉狛山に鳴くホトトギスは、泉川の渡り場が遠いので、ここには通ってこない。(渡し場が遠いので通って来ないのだろうか)

 

鑑賞 >>>

 田辺福麻呂(たなべのさきまろ)の「久邇(くに)の新京を讃(ほ)むる歌」。1053の「神の命」は、天皇の尊称。「高知らす」は、宮殿を立派にお造りになる、国を立派にお治めになる。「百木もり」は、多くの木が茂り。「錦なす」の「なす」は、~のように。「咲きををり」は、枝がたわむほど花がたくさん咲いて。「天霧らふ」は、空いっぱいに霧がかかる。「しぐれをいたみ」は、時雨がひどいので。「さ丹つらふ」の「さ」は接頭語、「丹つらふ」は、赤く色に現れる。「八千年」は、永久の意を具象的にいったもの。「生れ付かしつつ」は、生誕をお続けになられつつ。「ましじ」は、打消し推量の助動詞。

 1054の「泉川」は、現在の木津川。1056の上2句は「鹿背」を導く序詞。紡いだ麻糸を掛ける桛(かせ)という道具のことを言っています。「続麻」は、縒り合わせた糸。「鹿背山」は、京都府木津市にある標高約203mの山。『続日本紀天平13年(741年)の条に、「賀世山(かせやま)の西道より以東を左京と為し、以西を右京と為す」「賀世山の東河に橋を造らしむ」とあり、鹿背山は恭仁京の中心に位置していました。「時し」の「し」は、強意。1057の「朝さらず」は、朝になるたびに。「響もす」は、鳴り響かせる。1058の「狛山」は、鹿背山の対岸の山。「渡りを遠み」渡し場が遠いので。

 

 

恭仁京

 聖武天皇天平12年(740年)~同15年(743年)まで営んだ都。その後、都は、天平15年に紫香楽宮、同16年(744年)に難波宮へ遷都され、同17年(745年)に平城京に戻されました。恭仁京は、相楽郡恭仁郷の地に位置していたことによる命名都城制にのっとった宮都で、内裏や官公庁などの宮殿は左京、人民が住む京域は右京に建設する計画で造営が進められていましたが、道半ばで都の造営は中止されました。

木津川(泉川)

 木津川は、総延長約90kmの淀川水系に属する一級河川。『万葉集』では「泉川」「泉河」「泉之河」「伊豆美乃河」「出見河」「山背川」「山代川」などと表記され、『日本書紀崇神天皇の条に、「大彦命(おおひこのみこと)と武埴安命(たけはにやすのみこと)の両軍が川を挟んで挑んだので、時の人は改めて伊杼美河(挑:いどみがは)と名付けた」とあり、この名が訛って「泉川」になったという説があります。

 木津川は、青山高原に端を発し、伊賀市東部を北流、伊賀市北部で柘植(つげ)川、服部川と合流して、京都府に入るあたりから河谷を形成し、鹿背山の北裾の谷あいから南山城盆地に流れ出し、木津付近で北に流れの方向を変え、同盆地を南から北へ貫き、八幡市付近で宇治川桂川と合流して、淀川となって大阪湾に注ぎます。現在の木津川は、上流にダムや発電所が造られ、著しく水量が減っていますが、かつては流れの激しい川だったようです。

 

※ 参考文献はこちらに記載しています。⇒『万葉集』について