訓読 >>>
今造る久邇(くに)の都は山川の清(さや)けき見ればうべ知らすらし
要旨 >>>
新しく造られる久邇の都は、山川の清らかさを見れば、ここに君臨なさることはもっともなことだと思われます。
鑑賞 >>>
大伴家持が、天平12年12月から同16年2月までの間に都とされた恭仁京を讃めて作った歌。「うべ」は、なるほど、いかにも。「知らす」は、天下を御支配になる意。この歌が詠まれたのは天平15年8月で、大宮の造営に着手したのが同12年12月なので、3年目を迎えてもまだ完成せず、工事中だったようです。しかし、この年の12月に、恭仁京の造営は停止となり、離宮である紫香楽宮(しがらきのみや)の造営が決定されました。
恭仁京遷都の理由
恭仁京遷都の第一の理由は、藤原広嗣の乱にあるとされます。天平10年(738年)、藤原広嗣は、親族を誹謗した罪で大宰府へ左遷されました。そして、天平12年(740年)8月、藤原氏一族の劣勢を挽回しようとして、橘諸兄が重用する僧・玄昉、吉備真備を排斥しようとして上表したものの受け入れられず、大宰府で約1万人の兵を率いて挙兵しました。朝廷は、大野東人を大将軍とする約1万7000人の追討軍を派遣し、筑前の板櫃川で広嗣軍を破り、肥前国値嘉島で広嗣と弟の綱手を捕えて斬殺しました。都に異変が勃発するのを恐れた聖武天皇は避難のため東国へ出発し、伊賀・伊勢・美濃・近江を経て山背国に入り、恭仁宮へ行幸、そこで新都の造営を始めました。
第二の理由は、疫病の流行とされます。天平9年(737年)の春から筑紫に疫瘡(天然痘)が伝染し始め、夏から秋にかけて大流行し、藤原四兄弟(房前・麻呂・武智麻呂・宇合)が相次いで病死、多くの貴族・民衆が病死するなど、社会不安が広がりました。その後、仏教による国家鎮護の思想が広まり、大仏建立の発願、国分寺・国分尼寺の建立など、この社会不安を沈静化するための政策がとられました。
なお、恭仁京は『万葉集』では「久邇乃京」「久邇京」「久邇乃王都」「久邇乃京師」「久邇能京」「久邇能美夜古」「久邇京都」(いずれもクニノミヤコ)と表記されます。
遷都の歴史
斉明天皇
655年 難波京(難波長柄豊碕宮)から飛鳥川原宮)へ
656年 飛鳥川原宮から岡本宮(後飛鳥岡本宮)へ
661年 後飛鳥岡本宮から朝倉橘広庭宮へ
聖武天皇
740年 平城京から恭仁京へ
743年 恭仁京から紫香楽宮へ
745年 紫香楽宮から平城京へ
※ 参考文献はこちらに記載しています。⇒『万葉集』について