大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

一つ松幾代か経ぬる・・・巻第6-1042~1043

訓読 >>>

1042
一つ松(まつ)幾代(いくよ)か経(へ)ぬる吹く風の音(おと)の清きは年深みかも

1043
たまきはる命(いのち)は知らず松が枝(え)を結ぶ心は長くとぞ思ふ

 

要旨 >>>

〈1042〉この一本松はどれほどの代を経たのだろうか。松風の音が澄んでいるのは、年の積もったゆえなのであろうか。

〈1043〉命の長さは知らないが、ただこうして松の枝を結ぶ私の心は、長く遠く続いて欲しいと願っている。

 

鑑賞 >>>

 天平16年(744年)正月の作で、市原王(いちはらのおおきみ)、大伴家持らが、恭仁京付近とされる活道(いくぢ)の岡に登り、一株の松の下に宴を催した時に詠んだ歌。大樹の下で酒宴をするのは古くから行われたようです。1042が市原王の歌、1043が大伴家持の歌。

 1042の「一つ松」は、一本の松の意。「吹く風の音の清きは」は、松を吹く風の音が澄んでいるのは。「年深み」は年が経ったゆえ。「かも」の「か」は疑問。1043の「たまきはる」は「命」の枕詞。「松が枝を結ぶ」のは身の安全や長命を祈るまじないで、安積皇子(あさかのみこ)の長命を祈った歌だともいいます。

 活道の岡の所在地については諸説あり定まっていませんが、その年の3月に急逝した安積皇子の挽歌(巻第3-478~480)を詠んだ所でもあり、活道という地名と皇子との関係の深さが窺えるところから、皇子の邸宅があった場所ではないかとの見方もあります。また、ここに安積皇子の名は見えないものの、途中まで皇子は同席しており、健康上の理由から席を外した、そして、ここの歌はその後に詠まれたのではないかとの想像もなされています。皇子の長命への祈りが、ある種の危機感を伴って背後に流れているような雰囲気が感じられるからです。

 

 

市原王

 天智天皇5世の孫で、志貴皇子または川島皇子の孫(生没年未詳)。天平15年(743年)に従五位下、写経司長官、玄蕃頭、備中守、金光明寺造仏長官、大安寺造仏所長官、造東大寺司知事、治部大輔,摂津大夫、造東大寺司長官など、主に仏教関係事業の官職を歴任し正五位下に至りました。『万葉集』に8首の短歌を残し、大伴家持との関係をうかがわせる歌も多くあります。

安積皇子

 聖武天皇の第2皇子。神亀5年(728年)9月に皇太子の基皇子が死去したため、皇太子の最も有力な候補となりましたが、天平10年(738年)、光明皇后の子・阿倍内親王(後の孝謙称徳天皇)が立太子されました。天平15年(743年)、恭仁京の藤原八束の邸で宴が開かれ、この宴に大伴家持も出席し歌を詠んでいます。天平16年(744年)、聖武天皇難波宮への行幸に従駕しますが、その途上、桜井頓宮で脚気になり、恭仁京に引き返し、2日後にわずか17歳で死去しました。藤原仲麻呂に暗殺されたという説もあります。