訓読 >>>
3394
さ衣(ごろも)の小筑波嶺(をづくはね)ろの山の崎(さき)忘(わす)ら来(こ)ばこそ汝(な)を懸(か)けなはめ
3395
小筑波(をづくは)の嶺(ね)ろに月立(つくた)し間(あひだ)夜(よ)はさはだなりぬをまた寝(ね)てむかも
3396
小筑波(をづくは)の茂(しげ)き木(こ)の間(ま)よ立つ鳥の目ゆか汝(な)を見むさ寝(ね)ざらなくに
要旨 >>>
〈3394〉小筑波山の山の崎よ、そこを忘れられる時が来たなら、お前のことを心に懸けずにいられよう。
〈3395〉小筑波山のてっぺんに月が立つように、あの子に月が経ち、逢えない夜が多く重なったけれど、また共寝がしたい。
〈3396〉小筑波山の茂った木の間から飛び立つ鳥のように、遠くからお前を目で見ているだけでいなければならないのか、抱き合わなかった仲でもないのに。
鑑賞 >>>
常陸の国の歌。3394の「さ衣の」は、衣の「緒」と続き、同音の「小」にかかる枕詞。「小筑波」の「小」は接頭語。「山の崎」は、山が突き出た所。「忘ら」は「忘れ」の東語。3395の「月立し」の「立し」は「立ち」の東語で、女に月経が来たのを掛けています。3396の上3句は「目ゆ見む」を導く序詞。
3394~3396を、 筑波山の嬥歌(かがい:歌垣)の会に関係ある歌と見る向きもあります。3394などは、「筑波嶺の嬥歌における契りを忘れない」と言っているのだろう、と。そして、嬥歌が歌の掛け合いによって婚姻成立に結びつくものであれば、男女ともに歌の習熟に務めたに相違ない。『常陸風土記』にも誦詠された歌の数が非常に多かったことが記されており、相聞歌の始原の一つが、この嬥歌の場にあったと見ることができる。巻第14の東歌や巻第20などの防人歌など、東人が歌作できるのも、嬥歌の経験が基になっていると見られる、と。
歌垣について
歌垣は、もともとは豊作を祈る行事で、春秋の決まった日に男女が山や市(いち)に集まり、歌舞や飲食に興じた後、性の解放、すなわち乱婚が許されました。昔の日本人は性に関してはかなり奔放で、独身者ばかりではなく、夫婦で参加して楽しんでいたようです。歌垣が行われた場所としては、常陸の筑波山や大和の海柘榴市(つばいち)が有名です。東国では嬥歌(かがい)と呼ばれました。
『常陸風土記』にも筑波山の嬥歌会のことが書かれており、それによると、足柄山以東の諸国から男女が集まり、徒歩の者だけでなく騎馬の者もいたとありますから、遠方からも大層な人数が、胸をわくわくさせて集まる一大行事だったことが窺えます。また、土地の諺も載っており、「筑波峰の会に娉(つまどひ)の財(たから)を得ざる者は、児女(むすめ)と為(せ)ず」、つまり「筑波峰の歌垣で、男から妻問いのしるしの財物を得ずに帰ってくるような娘は、娘として扱わない」というのですから驚きます。
※ 参考文献はこちらに記載しています。⇒『万葉集』について