大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

恋ひ恋ひて逢へる時だに・・・巻第4-659~661

訓読 >>>

659
あらかじめ人言(ひとごと)繁(しげ)しかくしあらばしゑや我(わ)が背子(せこ)奥もいかにあらめ

660
汝(な)をと我(あ)を人ぞ放(さ)くなるいで我(あ)が君(きみ)人の中言(なかごと)聞こすなゆめ

661
恋ひ恋ひて逢へる時だに愛(うつく)しき言(こと)尽くしてよ長くと思はば

 

要旨 >>>

〈659〉今のうちからもう人の噂がうるさい。こんな調子では、ああ、あなた、この先どうなるのでしょう。

〈660〉あなたと私の仲を人が裂こうとしているようです。あなた、人の中傷には耳を貸さないでくださいね、決して。
 
〈661〉恋して恋して、やっと逢えた時くらい、優しい言葉を言い尽くして下さい。これからも二人の仲を長く続けようと思うなら。

 

鑑賞 >>>

 「大伴坂上郎女歌六首」とあるうちの、656~658に続いての3首。659・660は、二人の関係について他人からの中傷があり、夫に注意を促しています。659の「あらかじめ」は、深く関わらない今のうちから。「かくしあらば」は、このようであったならば。「しゑや」は、嘆息の声。「奥もいかにあらめ」の「奥」は、将来、末。「奥」に「沖」を掛け、「あらめ」に海藻の「あらめ」を掛けています。660の「放くなる」の「なる」は、伝聞。裂こうとしているという。「いで」は、呼びかけの感動詞。「中言」は、他人の中傷。「聞こすな」の「こす」は、希求の意。「ゆめ」は、決して。

 661は、逢うことのできた夜の訴え。「言」は、言葉。「愛(うつく)しき」の原文は「愛寸」で、「うるわしき」と訓むものもあります。しかし、歌人尾崎左永子は「ウツクシキ」と読みたいと言っています。用例からみても「ウルハシキ」にはどうしても「端麗に整った」イメージがつきまとい、「ウツクシキ」には「やさしく可愛らしい」感じがある。語感の問題だが、音韻の続き具合から言っても、「ウツクシキ」の方がずっと快いのである。学説は学説として、実作者の勘としてはどうしても「ウツクシキコトツクシテヨ」でないと耳になじまない。作中「ウツクシキコトツクシテヨ」と「ツクシ」の音が重複しているのもその理由の一つである、と。

 なお、ここまでの6首の相手が誰かは、題詞がないので分かりませんが、その前に、郎女が娘の二嬢について婿の駿河麻呂に贈った歌(651~652)や駿河麻呂が二嬢に心を置いた歌(653~654)が並んでいることから、ここの6首は、あるいは二嬢から夫の駿河麻呂に贈り、また答える歌を郎女が代作したものではないかとする見方があります。とくに「愛しき言尽くしてよ」というのは男女間の心理を知り尽くしたものの表現であり、若い娘の歌ではなく代作なのが明らかだったことから、編集者は原作者の名に戻したのでしょうか。なお、二嬢は作歌が得手ではなかったのか、二嬢の名による歌は『万葉集』に1首も残っていません。

 

 

 

大伴坂上郎女の略年譜

大伴安麻呂石川内命婦の間に生まれるが、生年未詳(696年前後、あるいは701年か)
16~17歳頃に穂積皇子に嫁す
714年、父・安麻呂が死去
715年、穂積皇子が死去。その後、宮廷に留まり命婦として仕えたか
721年、藤原麻呂左京大夫となる。麻呂の恋人になるが、しばらくして別れる
724年頃、異母兄の大伴宿奈麻呂に嫁す
坂上大嬢と坂上二嬢を生む
727年、異母兄の大伴旅人が太宰帥になる
728年頃、旅人の妻が死去。坂上郎女が大宰府に赴き、家持と書持を養育
730年 旅人が大納言となり帰郷。郎女も帰京
730年、旅人が死去。郎女は本宅の佐保邸で刀自として家政を取り仕切る
746年、娘婿となった家持が国守として越中国に赴任
750年、越中国の家持に同行していた娘の大嬢に歌を贈る(郎女の最後の歌)
没年未詳

※ 参考文献はこちらに記載しています。⇒『万葉集』について