訓読 >>>
2705
はしきやし逢はぬ君ゆゑいたづらにこの川の瀬に玉裳(たまも)濡(ぬ)らしつ
2706
泊瀬川(はつせがは)早(はや)み早瀬(はやせ)をむすび上げて飽(あ)かずや妹(いも)と問ひし君はも
2707
青山の岩垣沼(いはがきぬま)の水隠(みごも)りに恋ひやわたらむ逢ふよしをなみ
要旨 >>>
〈2705〉ああ愛しい、逢っても下さらないあの方ゆえに、甲斐もなく、川の瀬に藻を濡らしてしまいました。
〈2706〉泊瀬川の急流の水を、手ですくいあげて飲ませてくれながら、「十分飲んだか、お前」と、優しく問うてくれたあなたは、ああ。
〈2707〉青々とした山中に岩で囲まれた沼、その水が奥に隠れているように、心の奥底でひそかに焦がれ続けなければならないのだろうか。逢う手だてがないので。
鑑賞 >>>
「寄物陳思(物に寄せて思いを述べた歌)」で、河に寄せての歌。2705の「はしきやし」は、ああ愛しい。「玉裳」の「玉」は、美称。この歌は『人麻呂歌集』の「愛しきやし逢はぬ子ゆゑに徒に宇治川の瀬に裳裾潤らしつ」(巻第11-2429)の異伝とされ、伝誦されて宇治以外の地でうたわれたのか、「宇治川」が「この川」に、「裳裾」が「玉裳」となって、さらに男の歌から女の歌に変わっています。
2706の「泊瀬川」は桜井市の北方に発し、佐保川に合流する川。「早み早瀬」は、急流の意の熟語。「むすび上げて」は、手に掬い上げて。「飽かずや」は、飲み飽きないか、十分飲んだか、という問いかけ。一人川の流れを見つめる女が、今は別れてしまった男のことを思い、男がかつて川の水を飲ませてくれながら優しく自分に訊ねた言葉を思い出している歌です。
2707の「岩垣沼」は、岩が垣をなしている沼。「水隠りに」は、水に隠れているように。ここまで、極めて秘密に、の比喩。
相聞歌の表現方法
『万葉集』における相聞歌の表現方法にはある程度の違いがあり、便宜的に3種類の分類がなされています。すなわち「正述心緒」「譬喩歌」「寄物陳思」の3種類の別で、このほかに男女の問と答の一対からなる「問答歌」があります。
正述心緒
「正(ただ)に心緒(おもひ)を述ぶる」、つまり何かに喩えたり託したりせず、直接に恋心を表白する方法。詩の六義(りくぎ)のうち、賦に相当します。
譬喩歌
物のみの表現に終始して、主題である恋心を背後に隠す方法。平安時代以後この分類名がみられなくなったのは、譬喩的表現が一般化したためとされます。
寄物陳思
「物に寄せて思ひを陳(の)ぶる」、すなわち「正述心緒」と「譬喩歌」の中間にあって、物に託しながら恋の思いを訴える形の歌。譬喩歌と著しい区別は認められない。
※ 参考文献はこちらに記載しています。⇒『万葉集』について