大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

松が枝の土に着くまで降る雪を・・・巻第20-4439

訓読 >>>

松が枝(え)の土(つち)に着くまで降る雪を見ずてや妹(いも)が隠(こも)り居(を)るらむ

 

要旨 >>>

松の枝が重みで地に着くほどに降り積もる雪、こんなすばらしい雪を見ることなく、あなたは部屋に閉じ籠っておられるのでしょうか。

 

鑑賞 >>>

 冬の日、元正上皇が、靫負(ゆけい)の御井(みい)に行幸なさったときに、内命婦石川朝臣(ないみょうぶいしかわのあそみ)が詔に応えて雪を詠んだ歌。「靫負の御井」は、衛門府の古名。「内命婦石川朝臣」は、大伴安麻呂の妻になった石川郎女のことで、坂上郎女大伴稲公の母となる人です。「内命婦」は、自身が五位以上の女官を指します。なお、左注に次のような補足説明があります。

 そのころ、水主内親王(もひとりのひめひこ:天智天皇の皇女)は睡眠も食事もろくにできない状態で、幾日も参内していなかった。そこで、この日、太上天皇元正上皇)が女官たちに命じて、「水主内親王に贈るために雪を詠んだ歌を奉りなさい」と仰せられた。しかし、他の命婦らは歌を作ることができず、ひとり石川命婦のみ歌を作って献上した。

 「松が枝の土に着くまで」は、松の枝が雪の重みで地面につくほどに。「見ずてや」の「見ずて」は、見ずに。「や」は疑問。「妹」は女性に対しての代名詞で、ここは水主内親王のこと。なお、この歌は、上総国大掾(だいじょう)正六位上大原真人今城(おはらのまひといまき)が伝誦したものだとの注記があります(年月は未詳)。

 内命婦石川郎女は、蘇我氏の血を引く尊貴な家柄の出身であるばかりでなく、ここにある通り、宮廷にその才も謳われた女性です。大伴安麻呂に求婚されて生まれた娘の坂上郎女は、この母のもと、幼い頃から十全の教育が施されて、どこに出しても遜色にないように仕立てられたのでしょう。

 

 

大伴家の人々

大伴安麻呂
 壬申の乱での功臣で、旅人・田主・宿奈麻呂・坂上郎女らの父。大宝・和銅期を通じて式部卿・兵部卿・大納言・太宰帥(兼)となり、和銅7年(714年)5月に死去した時は、大納言兼大将軍。正三位の地位にあった。佐保地内に邸宅をもち、「佐保大納言卿」と呼ばれた。

巨勢郎女
 安麻呂の妻で、田主の母。旅人の母であるとも考えられている。安麻呂が巨勢郎女に求婚し、それに郎女が答えた歌が『 万葉集』巻第2-101~102に残されている。なお、大伴氏と巨勢氏は、壬申の乱においては敵対関係にあった。

石川郎女石川内命婦
 安麻呂の妻で、坂上郎女・稲公の母。蘇我氏の高貴な血を引き、内命婦として宮廷に仕えた。安麻呂が、すでに巨勢郎女との間に旅人・田主・宿奈麻呂の3人の子供をもうけているにもかかわらず、石川郎女と結婚したのは、蘇我氏を継承する石川氏との姻戚関係を結びたいとの理由からだったとされる。

旅人
 安麻呂の長男で、母は巨勢郎女と考えられている。家持・書持の父。征隼人持節使・大宰帥をへて従二位・大納言。太宰帥として筑紫在任中に、山上憶良らとともに筑紫歌壇を形成。安麻呂、旅人と続く「佐保大納言家」は、この時代、大伴氏のなかで最も有力な家柄だった。

稲公(稲君)
 安麻呂と石川郎女の子で、旅人の庶弟、家持の叔父、坂上郎女の実弟天平2年(730年)6月、旅人が大宰府で重病に陥った際に、遺言を伝えたいとして、京から稲公と甥の古麻呂を呼び寄せており、親しい関係が窺える。家持が24歳で内舎人の職にあったとき、天平13年(741年)12月に因幡国守として赴任している。

田主
 安麻呂と巨勢郎女の子で、旅人の実弟、家持の叔父にあたる。『万葉集』には「容姿佳艶、風流秀絶、見る人聞く者、嘆せずといふことなし」と記され、その美男子ぶりが強調されている。しかし、兄弟の宿奈麻呂や稲公が五位以上の官職を伴って史書にしばしば登場するのに対し、田主は『続日本紀』にも登場しない。五位以上の官位に就く前に亡くなったか。

古麻呂
 父親について複数の説があり確実なことは不明。長徳あるいは御行の子とする系図も存在するが、『 万葉集』には旅人の甥とする記述がある。旅人の弟には田主・宿奈麻呂・稲公がいるので、古麻呂はこのうち誰かの子であったことになる。天平勝宝期に左少弁・遣唐副使・左大弁の職をにない正四位下となる。唐から帰国するとき、鑑真を自らの船に載せて日本に招くことに成功した。のち橘奈良麻呂らによる藤原仲麻呂の排除計画に与し、捕縛されて命を落とした。

坂上郎女
 安麻呂と石川郎女の子で、旅人の異母妹、家持の叔母にあたる。若い時に穂積皇子に召され、その没後は藤原不比等の子・麻呂の妻となるが、すぐに麻呂は離れる。後に、前妻の子もある大伴宿奈麻呂(異母兄)に嫁して、坂上大嬢と二嬢を生む。後に、長女は家持の妻となり、次女は大伴駿河麻呂(おおとものするがまろ)の妻となった。家持の少・青年期に大きな影響を与えた。

書持
 旅人の子で、家持の弟。史書などには事績は見られず、『万葉集』に収められた歌のみでその生涯を知ることができる。天平18年(746年)に若くして亡くなった。

池主
 出自は不明で、池主という名から、田主の子ではないかと見る説がある。家持と長く親交を結んだ役人として知られ、天平年間末期に越中掾を務め、天平18年(746年)6月に家持が越中守に任ぜられて以降、翌年にかけて作歌活動が『万葉集』に見られる。

各巻の概要