訓読 >>>
543
大君(おほきみ)の 行幸(みゆき)のまにま もののふの 八十伴(やそとも)の男(を)と 出(い)でて行(ゆ)きし 愛(うるは)し夫(づま)は 天飛(あまと)ぶや 軽(かる)の道(みち)より 玉たすき 畝傍(うねび)を見つつ あさもよし 紀伊路(きぢ)に入り立ち 真土山(まつちやま) 越ゆらむ君は 黄葉(もみちば)の 散り飛ぶ見つつ にきびにし 我(わ)れは思はず 草枕(くさまくら) 旅をよろしと 思ひつつ 君はあるらむと あそそには かつは知れども しかすがに 黙(もだ)もえあらねば 我(わ)が背子(せこ)が 行きのまにまに 追はむとは 千度(ちたび)思へど たわやめの 我(あ)が身にしあれば 道守(みちもり)の 問はむ答へを 言ひ遣(や)らむ すべを知らにと 立ちてつまづく
544
後(おく)れ居(ゐ)て恋ひつつあらずは紀伊(き)の国の妹背(いもせ)の山にあらましものを
545
我(わ)が背子が跡(あと)踏み求め追ひ行かば紀伊(き)の関守(せきもり)い留(とど)めてむかも
要旨 >>>
〈543〉天皇の行幸につき従って、多くの大宮人と出て行った、端正な我が夫は、軽の道から畝傍山を見ながら紀伊への道に足を踏み入れ、もう真土山を越えただろうか。夫は、黄葉の散り飛ぶ光景を見ながら、馴れ親しんだ私のことなどは忘れ、旅はいいものだと思っておいでだろうと、うすうす気づいているけれど、黙ってじっとしてられなくて、あなたが行かれた道筋の通りに、あとを追って行こうと、いくたび思ったことか。けれども、か弱い女の身のこととて、関所の役人に問いつめられたら何と答えてよいか、言い訳をする手立ても分からなくて、立ちすくんだまま途方に暮れるばかりです。
〈544〉あとに残って恋しさに苦しんでばかりいずに、紀伊の国の妹背の山にでもなって、ずっとおそばにいたい。
〈545〉あなたの通った跡を追っていったら、紀伊の関所の役人が咎めて留めてしまうでしょうか。
鑑賞 >>>
笠金村の歌。題詞に「神亀元年(724年)冬の10月の聖武天皇の紀伊行幸の折に、従駕の人に贈るため、大和に残った娘子に頼まれて作った歌」とありますが、そういう設定で行幸先の宴席で発表した作とされます。宮廷歌人たちの作品には、儀礼的な作品群と遊興的な作品群の2つの系列があり、金村は、とりわけ宴席における遊興的な作品で本領を発揮した歌人だったと見られ、ここの歌もそうした作品の一つです。主語を重ねたり同じ形の句を繰り返したりして、たどたどしい趣を出し、素人の女性が詠んだように仕立てており、家に残されて夫を恋い慕う気持ちを詠んでいます。
543の「行幸のまにま」は、行幸に従って。「もののふ」は、朝廷に仕える文武百官。「八十伴の男」の「八十」は、数が多いことの表現。「伴の男」は、部族の男子。「愛し夫」の「愛し」は「うつくし」とも訓みますが、「うつくし」は目下の者や弱者に対する哀憐の情を表すのに対し、「うるはし」はおおむね尊敬の念のこもった賛美の気持ちを表します。女性から男性に対しては「うるはし」を用いるのが一般的です。「天飛ぶや」は「軽」の枕詞。「軽」は、畝傍山の東南の地。「玉たすき」は「畝傍」の枕詞。穴を開けた玉を通したたすきが「玉たすき」で、首の後部をウネと言ったので掛けたもの。「あさもよし」は、麻裳良しの意で「紀伊」の枕詞。「真土山」は、大和国と紀伊国の境にある山。「にきびにし」は、馴れ親しんだ。「草枕」は「旅」の枕詞。「あそそ」は、うすうす。「かつは」は、一方では。「しかすがに」は、そうはいうものの。「黙もえあらねば」は、黙ってじっとしていられないので。「たわやめ」は、か弱い女。「道守」は、関守。関所の番人。「すべを知らにと」は、方法が分からないからといって。「つまづく」は、ここは立ちすくむ。
544の「後れ居て」は、あとに残って。「妹背の山」は、和歌山県かつらぎ町の妹山と背の山。紀の川を挟んで2つの山が向かい合っていて、夫婦が仲良く一緒にいることの譬えに言われます。畿内外の境界に位置し、都に妻や恋人を残してここを通る旅人は、妹背の山を見て、強い望郷の念にかられたようで、『万葉集』には15首の歌が詠まれています。この妹背山は、当時、和歌の浦に浮かんでいた玉津島山の一つの妹背山とは異なります。「あらましものを」は、あろうものを。545の「関守い」の「い」は、主格の下に付いて強意を表す助詞。「かも」は、疑問の「か」と詠嘆の「も」。