訓読 >>>
1341
真玉(またま)つく越智(をち)の菅原(すがはら)我(わ)れ刈(か)らず人の刈らまく惜(を)しき菅原
1342
山高み夕日(ゆふひ)隠(かく)りぬ浅茅原(あさぢはら)後(のち)見むために標(しめ)結(ゆ)はましを
1343
言痛(こちた)くはかもかもせむを岩代(いはしろ)の野辺(のへ)の下草(したくさ)我(わ)れし刈りてば [一云 紅の現(うつ)し心や妹に逢はずあらむ]
要旨 >>>
〈1341〉越智の菅原を、私には刈り取ることが出来ず、人が刈っていくのが口惜しい、あの菅原よ。
〈1342〉山が高いので、夕日が早くも隠れてしまった。浅茅原に、あとであの人と逢うために標縄を結んでおきたかったのに。
〈1343〉人の噂がうるさいというのなら何とでもしよう。岩代の野辺の下草を私が刈ってしまったあとでなら。(このままあなたに逢わないでは正気でいられない)
鑑賞 >>>
「草に寄せる」歌。1341の「真玉つく」の「真」は美称で、玉を付ける緒と続き、「越智」にかかる枕詞。「越智」は、奈良県高取町越智または滋賀県米原市の遠智とされます。上2句は憧れている女の譬え。「刈る」は、わが物にする譬え。密かに思いを寄せていた女が、他の男のものになったのを悔しがっています。
1342の「山高み」は、山が高いので。「浅茅原」は、丈の低い茅原。若い女の譬えと見るのが一般的で、何らかの接触があった女の、住所も聞かずに別れてしまったことを残念がっている歌とされますが、草を女に喩える理由がはっきりせず、逢引のための場所取りを意味した歌ともとれます。上掲の解釈はそれに従っています。「標」は、目じるし。
1343の「言痛くは」は、人の噂がうるさければ。「かもかも」は、どのようにも。「岩代」は、和歌山県南部町の岩代とされます。下3句は、あなたをわが物にしてしまったあとでなら、の意が込められており、つまり、自分に身を許してくれたら、その後の問題はいかようにも処理しようと言っています。しかし、「下草」は女の寓意などではなく、口さがない周囲の人々と見る説もあり、「人の噂がうるさくて逢えないというのなら私が何とかしよう。野辺の下草を私が一本一本刈り取って」のように解しています。