大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

新しき年の始の初春の・・・巻第20-4516

訓読 >>>

新(あらた)しき年の始(はじめ)の初春(はつはる)の今日降る雪のいや重(し)け吉事(よごと)

 

要旨 >>>

新しい年の初めの初春の今日、雪が降っている。この雪のように、ますます積もって行け、めでたい事が。

 

鑑賞 >>>

 大伴家持の歌。因幡国に赴任して迎えた新年の天平宝字3年(759年)の正月1日、国庁で国司郡司らを饗応した宴で作った歌とあります。この日は、暦の上の元日と立春が重なる、19年に一度の歳旦立春(さいたんりっしゅん)という特別の日でした。因幡国の国庁は、今の鳥取市の東南に位置する国府町大字庁付近にあったとされます。この歌は、御代のますますの栄えを予祝する歌ではありますが、家持のこの頃の境遇を思えば、せめて今年だけでもよいことがあってほしいとの深い祈りが込められているようです。そして家持はきっと、この雪の日に奈良の雪を思い出したのでしょう。ことに13年前の天平18年(746年)の正月、奈良でも雪が降り、元正上皇のところに左大臣橘諸兄に率いられて御機嫌伺いに行った(巻第17-3922~3926)、そんな楽しかった日を思い出していたのではないでしょうか。

 五穀豊穣を予祝する雄略天皇の春の歌に始まった『万葉集』は、この1首で閉じられます。『万葉集』の中では年代のいちばん新しい歌です。また、家持はこの時まだ42歳で、亡くなったのは68歳ですが、この歌を最後に彼の歌は『万葉集』に残っていません。その後の26年間の家持は、よく「歌わぬ人」になったとも言われますが、ふつうに歌を作ったものの、自分が後世に残したいような歌はできなかったのかもしれません。

 橘奈良麻呂の乱の影響で因幡守に左遷された家持は、いったん帰京するものの、その後も謀反事件に関係したとして薩摩守に左遷されるなど、官職は都と地方をめまぐるしく行き来し、多くの困難に出遭いました。晩年の天応元年(781年)にようやく従三位に昇進し、没したのは陸奥国多賀城とされます(在京の説も)。その直後に、造営中の長岡京藤原種継暗殺事件が発生、家持も関与していたとして、埋葬も許されず、その遺骨は息子の永主とともに隠岐へ流されました。それから21年後の延暦25年(806年)、事件に関わった全員が許され、故家持も従三位に復しますが、その後の大伴氏は「大」を除かれ伴(ばん)氏となり、その伴氏も、伴大納言善男の失脚とともに歴史から完全に姿を消してしまいます。

 

 

 

 

窪田空穂の感慨

 ―― 万葉集は、淳仁天皇天平宝字二年、大伴家持因幡守として地方にやられたことによって終わり、彼の歌を終わりとして、奈良朝末期の歌界は全く湮滅(いんめつ)に帰し、知る由のないものとなった。感慨なきを得ぬことである。本集と家持との関係は問題を残しているものであるが、巻第十七以下本巻に至るまでの四巻は、明瞭に彼の手によって成ったものであり、奈良朝末期の歌界の一面を伝え、その全貌の想像されるのも、これまた明瞭に彼のしたことである。その動機は、彼の歌に対する愛好心と、その延長としての蒐集欲とであって、それ以外の何ものでもない。この四巻は彼の備忘のためのものであったことは、自作に対して二案のある場合、その棄てた一案をも、細注の形で付記しているのをみても知られる。また、彼の収集欲のいかに強いものであり、また潔癖の伴ったものであったかは、それをした歌に対しての左注のいかに神経質なものであるかをみても知られる。彼の丹念に記録した宴歌のごときも、自身その宴飲の席に列(つらな)り親しく耳に聞き目に見たものでないと記録していないことは、最も明らかにその態度を示しているものである。

 この最後の四巻は、全く家持一人の手によって存在しているものであり、彼がなければ存しないものである。家持という人の収集欲の現われの、わが文芸の上に及ぼした結果を思うと、感深きことである。しかし歌人としての家持は、この時期には完成の域に達していて、今後の展開は多く望めない人となっていたかに思われる。彼は、知性を摂取した悟性本位の人で、調和をもった、物柔らかな生活を営んでおり、歌はその生活を母胎として生まれて来たとみえる。したがって彼の気分の及ぶ範囲も歌も限界があって、歌を中心としていえば、その生活気分が変わらない以上、歌境も変わり得なかったとみえる。この歌境を変えることは、その生活態度に意志力が加わり、積極的にならなければできないのであるが、これは彼には望み難いことに思える。家持の歌が完成の域に達していたろうというのはこの意味で、彼として行きうる所まで行き得ていたのである。この当時の政情は、彼をして入興の歌を詠ましめたかどうかは疑問である。因幡守以後の彼の歌が、宴歌の一首に終わっているのは、甚だ心残りには感じられるが、万葉集そのものよりみれば、重大なる損失ではないかのごとく思われる。――