『万葉集』には、和歌だけでなく、分類名・作者名・題詞・訓注・左注などが記載されていますが、和歌以外の部分はほとんどが漢文体となっています。これに対して和歌の表記には、漢字の本質的な用法である表意文字としての機能と、その字音のみを表示する表音文字としての機能が使われており、後者の用法を「万葉仮名」と呼びます。漢字本来の意味とは関係なく、その字音・字訓だけを用いて、ひらがな・カタカナ以前の日本語を書き表した文字であり、『万葉集』にもっとも多くの種類が見られるため「万葉仮名」と呼ばれます。
当時の日本にはまだ固有の文字がなかったため、中国の漢字が表記に用いられたわけです。たとえば、伊能知(=いのち・命)、於保美也(=おほみや・大宮)、千羽八振(=ちはやぶる・神の枕詞)などのように、漢字そのものに意味はなく、単にかなとして用いられます。むろん、漢字の意味どおりに用いられる場合もあります。ちなみに、巻第8-1418番の志貴皇子の歌は、原文では次のように書かれています。
石激 垂見之上乃 左和良妣乃 毛要出春尓 成来鴨
・・・石(いは)走る 垂水の上の さわらびの 萌え出(い)ずる春に なりにけるかも
また、奈良時代の音節数は、清音60(古事記・万葉集巻第5は61)・濁音27だったことが分かっています。たとえばア行のえ(e)とヤ行のえ(ye)、ず(zu)とづ(du)などは区別されており、そのため現代語の清音44・濁音18に比べてはるかに多くありました。
用字の例 >>>
- 表意文字を用いたもの
国(くに) 人(ひと) 家(いへ) 鶯(うぐひす) 情(こころ) 念(おもふ) 天地(あめつち) 朝猟(あさかり) 草枕(くさまくら)・・・いわゆる正訓
古昔(いにしへ) 光儀(すがた) 玄黄(あめつち) 山下(あらし) 毛人髪(こちた) 山上復有出(いで:出)・・・義訓また戯書
所見(みゆ) 将見(みむ) 不見(みず) 雖不零(ふらねども)・・・返読
無何有(むがう) 酒所(くわそ) 婆羅門(はらもに) 檀越(たにをち)・・・外来語 - 表音文字を用いたもの
許己呂(こころ:心) 奇里(きり:霧) 波疑(はぎ:萩) 計良之(けらし:助動詞)・・・一字一音の音仮名
鬱瞻(うつせみ) 越乞(をちこち) 兼(けむ:助動詞)・・・一字二音の音仮名
名津蚊為(なつかし:懐) 千羽日(ちはひ:幸) 八間跡(やまと:大和)・・・一字一音の訓仮名)
夏惜(なつかし:懐) 大欲(おほほし:欝) 鶴鴨(つるかも:助動詞と助詞) 慍(いかり:錨)・・・一字多音の訓仮名
胡粉(しらに:不知) 十六(しし:猪) 散都良布(さにつらふ) 八十一里喚鶏(くくりつつ)・・・戯書または各種混合 - 表意文字と表音文字を合わせ用いたもの
窺良布(うかねらふ) 荒競(あらそふ) 悔敷(くやしき) 弟世(いろせ) - 文字を用いていないもの
空消生(そらにけなまし) 春立下(はるたつらしも) 人相鴨(ひともあはぬかも) 死物(しなましものを)・・・助詞、助動詞の場合に多い