大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

新治の今作る道さやかにも・・・巻第12-2855~2858

訓読 >>>

2855
新治(にひはり)の今作る道さやかにも聞きてけるかも妹(いも)が上のことを

2856
山背(やましろ)の石田(いはた)の社(もり)に心(こころ)鈍(おそ)く手向(たむ)けしたれや妹(いも)に逢ひかたき

2857
菅(すが)の根のねもころごろに照る日にも干(ひ)めや我(わ)が袖(そで)妹(いも)に逢はずして

2858
妹(いも)に恋ひ寐(い)ねぬ朝明(あさけ)に吹く風は妹にし触(ふ)れば我(わ)れさへに触れ

 

要旨 >>>

〈2855〉新しく開いて今できたばかりの道は、清々しくはっきりしているが、そのように愛しい彼女のことをはっきり聞いたことだよ。

〈2856〉山背の石田の神社に、真心こめずに捧げ物をしたせいだろうか。彼女になかなか逢えないでいる。

〈2857〉じりじりと照りつける日差しにさえ乾くことはない、涙に濡れた私の袖は。あの子に逢えないでいて。

〈2858〉あの娘に恋して眠れない朝に吹いてくる風よ、あの娘に触れているのなら、せめてこの私にも触れてくれ。

 

鑑賞 >>>

 『柿本人麻呂歌集』から「寄物陳思(物に寄せて思いを述べた歌)」4首。2855は、路に寄せての歌。「新治」は、新しく開墾する意。「さやかに」は、はっきり、明瞭に。「妹が上のこと」は、妹に関する事。遠い地に関係した女のいる男が、女の様子がわからずにいたところ、図らずもそれを聞き得た歓喜をいった歌です。

 2856は、神社に寄せての歌。「山背」は、京都市の南の地域。「石田の杜」は、京都市伏見区石田にあった神社。「心鈍く」は、なおざりに、心の働きが鈍く。2857は、日に寄せての歌。「菅の根の」は「ねもころごろに」の枕詞。「ねもころごろに」は、入念に、心を込めて、の意。ここでは焼けつくような日差しのこと。「干めや」の「や」は、反語。

 2858は、風に寄せての歌。「我れさへに触れ」は、せめて私にも触れてくれ。逢えないのなら、せめて同じ風に触れていたいという、恋に悩む純朴な男心。当時の人々は、思う人の身に触れた物を自分の身に触れさせることは、霊の交流のあることとして重んじていました。

 

 

 

戸籍制度

 戸籍の作成は、古くは大化2年(646年)から白雉3年(652年)のころに始められたといいますが、もっともこれは確実ではなく、確かなものとしては、天智天皇9年(670年)のそれが最初です。当時は6年ごとに新しい戸籍を作って、中央政府に提出するよう命じられました。その目的は、これによって郷(ごう)や里の制度を整え、課税制度を確定させるものでした。郷とは郡の下の単位で、三里程度を一郷とし、一里は50戸をもって編成しますから、今日でいう村が郷、字(あざ)が里に当たりますが、その大きさは多少違っていました。というのは、同じ戸でも郷戸と房戸とがあり、一戸の郷戸の戸主のもとに何戸かの房戸が付属していたため、50戸といっても50軒の家屋があったわけではありません。そして、50戸の責任者が里長、さらに三里全体の責任者が郷長とよばれ、家々が組織化されました。