訓読 >>>
2868
恋ひつつも後も逢はむと思へこそ己(おの)が命(いのち)を長く欲(ほ)りすれ
2869
今は我(あ)は死なむよ我妹(わぎも)逢はずして思ひわたれば安けくもなし
2870
我(わ)が背子(せこ)が来(こ)むと語りし夜(よ)は過ぎぬしゑやさらさらしこり来(こ)めやも
2871
人言(ひとごと)の讒(よこ)しを聞きて玉桙(たまほこ)の道にも逢はじと言へりし我妹(わぎも)
2872
逢はなくも憂(う)しと思へばいや増しに人言(ひとごと)繁(しげ)く聞こえ来るかも
要旨 >>>
〈2868〉こうして恋い焦がれていれば後にはきっと逢えると思うからこそ、自分の命を長かれと思っている。
〈2869〉私は死んでしまいそうだ。愛しいお前に逢わないまま思い続けていると、心が安らぐ時がない。
〈2870〉あの人がやって来ると約束した夜は空しく過ぎてしまった。ええい、もう今さら、間違ってもやって来るものか。
〈2871〉誰かが言う私の悪口を真に受けてしまって、道で逢うことさえ嫌だと言ってるらしいな、あの子は。
〈2872〉逢えないでいるのは辛いと思っているのに、さらに人の悪口が激しく聞こえてくる。
鑑賞 >>>
「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」。2868の「恋ひつつも」は、片恋をしながらも。2869の「安けく」は「安し」の名詞形。2870の「しゑや」は、ちぇっ、今さらもう、のように吐き捨てる気持ちを表す感動詞。「さらさら」は、今さら。「しこる」は、間違う、やり損なう意。「やも」は、反語。2871の「讒し」は、事実を曲げての悪口。「玉桙の」は「道」の枕詞。道の曲がり角や辻などに魔除けのまじないとして木や石の棒柱が立てられていたことによります。2872は、噂を警戒して女が逢わなくなり、それを辛く思っていると、さらに噂が激しくなったと嘆いています。
「妹」と「児」の違い
「妹」は、男性が自分の妻や恋人を親しみの情を込めて呼ぶ時の語であり、古典体系には「イモと呼ぶのは、多く相手の女と結婚している場合であり、あるいはまた、結婚の意志がある場合である。それほど深い関係になっていない場合はコと呼ぶのが普通である」とあります。しかし、「妹」と「児」とを、このように画然と区別できるかどうかは、歌によっては疑問を感じるものもあります。ただ、大半で「妹」が「児」よりも深い関係にある女性を言っているのは確かでしょう。
また、例外的に自分の姉妹としての妹を指す場合もあり(巻第8-1662)、女同士が互いに相手を言うのに用いている場合もあります(巻第4-782)。
⇒ 各巻の概要