大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

これやこの大和にしては我が恋ふる・・・巻第1-35

訓読 >>>

これやこの大和にしては我(あ)が恋ふる紀路(きぢ)にありといふ名に負ふ背(せ)の山

 

要旨 >>>

これがまあ、大和にいたときに私が見たいと憧れていた、これが紀伊道にあるというあの有名な背の山なのか。

 

鑑賞 >>>

 阿閉皇女(あへのひめみこ)が背の山を越えるときに作った歌。年月日は記されていませんが、直前の歌が持統天皇4年(690年)9月の紀伊行幸時の歌であることから、同じ行幸の際に詠まれた可能性が指摘されています。阿閉皇女は天智天皇の皇女、草壁皇子の妃だった人で、後の元明天皇です。この時は、夫の草壁皇子が亡くなって1年半近くが経っており、子の軽皇子(後の文武天皇)は8歳になっていました。

 「これやこの」は、これがあの有名な、の意味の慣用句。「名に負ふ」は、名高い、有名な。「背の山」は、和歌山県伊都郡かつらぎ町紀の川北岸にある山。大化の改新の詔では「紀伊の兄山」と記され、畿内の南限とされていました。紀の川を挟んだ南岸には妹山があり、この時代、大和から紀伊の国に旅した人々は、仲良く並んだ妹山と背山を見て、夫婦や恋人に見立てた歌を残しています。皇女の歌からは、有名な背の山を初めて見た感動だけではない、「背」という言葉に対する深い思いがあったことが察せられ、当時、阿閉皇女には誰か恋い慕う男がいたとの解釈もあるようです。

 この歌は、のちに元明女帝となってからの歌の、厳しく張りつめた調べとは異なる、安穏とも呑気ともいえる調子ではありますが、この時期、持統天皇と阿閉皇女、軽皇子は、そうそう呑気にしていられる状況にはありませんでした。壬申の乱以後、新興豪族・藤原氏の台頭が目立ち始め、また持統天皇後の皇位継承をもくろむ皇子たちが何人もいたからです。そんな時に頼りになるのはやはり身内であり、阿閉皇女と、姉であり姑でもある持統天皇、そして時の太政大臣高市皇子に嫁いでいる姉・御名部皇女の3人姉妹は、深く寄り添い、自分たちのなすべきこと、守るべきことを確かめ合ったことでしょう。それは、草壁皇子の嫡子である軽皇子を是が非でも即位させ、天武皇統を守り抜くことだったはずです。