訓読 >>>
2393
玉桙(たまほこ)の道行かずあらばねもころのかかる恋には逢はざらましを
2394
朝影(あさかげ)にわが身はなりぬ玉かぎるほのかに見えて去(い)にし子ゆゑに
2395
行き行きて逢はぬ妹(いも)ゆゑひさかたの天(あま)露霜(つゆしも)に濡(ぬ)れにけるかも
2396
たまさかに我(わ)が見し人をいかにあらむ縁(よし)を以(も)ちてかまた一目見む
要旨 >>>
〈2393〉あの道にさえ進まなかったら、心を尽くした、こんなにも苦しい恋に会うことはなかったのに。
〈2394〉朝日に映る影のように、私はやせ細ってしまった。玉がほのかにきらめくように、ほんの少し姿を見せて立ち去ってしまったあの子のために。
〈2395〉行っても行っても、逢おうとしないあの娘のせいで、天の霜露にすっかり濡れてしまった。
〈2396〉偶然に出逢ったあの人を、どんな手がかりを得て、また一目お逢いできるでしょうか。
鑑賞 >>>
『柿本人麻呂歌集』から「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」3首。2393は、偶然に路上で見かけた女に恋した男の歌。「玉桙の」は「道」の枕詞。道の曲がり角や辻などに魔除けのまじないとして木や石の棒柱が立てられていたことによります。「ねもころ」は、心を尽くす意。「まし」は、反実仮想。
2394は、恋人に去られた男の歌。「朝影」は、朝日に照らされて映る細長い影で、痩せ細った身の譬喩。恋にやつれた姿を喩える常套句だったと見られますが、朝の薄明りの覚束なく頼りない意とする見方もあるようです。「玉かぎる」は、玉がほのかに光を発する意で「ほのかに」にかかる枕詞。「ほのかに見えて」は、ほんの少し見えて。「去にし子ゆゑに」は、行ってしまった女のゆえに。これと全く同じ歌が巻第12の「寄物陳思(物に寄せて思いを述べた歌)」の中に作者不明の作としてあり(3085)、重出や類歌があるのは、当時流行った表現だったことを物語ります。
2395の「行き行きて」どんどん行って。原文「行々」で、漢詩などに多く見られる表現の影響による訓みとされますが、ユケドユケドと訓む立場もあります。「ひさかたの」は「天」の枕詞。「露霜」は、露が凍って霜になったもの。「天の露霜に」と8音の字余りで訓むものもあります。詩人の大岡信は、「露霜は天から降ってくるものではないが、『ひさかたの天』という誇張法は、この歌の思いつめた恋の思いの表現としてはまさにありうべきもので、この大きな空間把握は、まさに人麻呂の独擅場」と評しています。
2396の「たまさかに」は、偶然に、思いがけなく。「いかにあらむ縁を以ちてか」の「縁」は、ここでは、手段、きっかけ。どのような手がかりによってか。「か」は、疑問の係助詞で、「一目見む」は、その結びで連体形。一目見ることができようか。いわゆる一目惚れを詠んだ歌は『万葉集』に少なくなく、上の2393のほか、同じ巻第11の2565、2605、2694などにも見えます。
「妹」と「児」の違い
「妹」は、男性が自分の妻や恋人を親しみの情を込めて呼ぶ時の語であり、古典体系には「イモと呼ぶのは、多く相手の女と結婚している場合であり、あるいはまた、結婚の意志がある場合である。それほど深い関係になっていない場合はコと呼ぶのが普通である」とあります。しかし、「妹」と「児」とを、このように画然と区別できるかどうかは、歌によっては疑問を感じるものもあります。ただ、大半で「妹」が「児」よりも深い関係にある女性を言っているのは確かでしょう。
また、例外的に自分の姉妹としての妹を指す場合もあり(巻第8-1662)、女同士が互いに相手を言うのに用いている場合もあります(巻第4-782)。
⇒ 各巻の概要