訓読 >>>
2848
直(ただ)に逢はずあるは諾(うべ)なり夢(いめ)にだに何(なに)しか人の言(こと)の繁(しげ)けむ
[或本の歌に曰く うつつにはうべも逢はなく夢にさへ]
2849
ぬばたまのその夢(いめ)にだに見え継(つ)ぐや袖(そで)干(ふ)る日なく我(あ)れは恋ふるを
2850
うつつには直(ただ)には逢はず夢(いめ)にだに逢ふと見えこそ我(あ)が恋ふらくに
要旨 >>>
〈2848〉じかに逢えないのはやむを得ません。けれども、夢の中で逢うだけなのに、どうして世間の噂がうるさくつきまとうのでしょう。(なるほど現実には逢えません。それにしても夢にまでも)
〈2849〉夜のその夢の中に、私の姿が見え続けていますか。涙で濡れる袖が乾く日とてなく、私は恋い焦がれていますのに。
〈2850〉現実にはじかに逢うことができないでいますが、せめて夢の中では目の前にいるかのように姿を見せてください。こんなに恋い焦がれているのだから。
鑑賞 >>>
『柿本人麻呂歌集』から「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」3首。2848は、結婚後間もないのに、男に疎遠にされている女の歌。「諾なり」は、もっともだ。「夢にだに」は、夢に逢うだけでも。「何しか」は、どうしてか。「人の言の繁けむ」は、他人の噂の多いことであろうか。2849は、妻が夫を恋いつつ過ごしている歌。「ぬばたまの」は「夢」の枕詞。「見え継ぐや(見継哉)」は訓が定まらないものの、見え続いたかの意。2850は、旅先にある夫に妻が恋情を訴えた歌。「見えこそ」の「こそ」は、願望。「恋ふらく」は「恋ふ」のク語法で名詞形。
『柿本人麻呂歌集』について
『万葉集』には題詞に人麻呂作とある歌が80余首あり、それ以外に『人麻呂歌集』から採ったという歌が375首あります。『人麻呂歌集』は『万葉集』成立以前の和歌集で、人麻呂が2巻に編集したものとみられています。
この歌集から『万葉集』に収録された歌は、全部で9つの巻にわたっています(巻第2に1首、巻第3に1首、巻第3に1首、巻第7に56首、巻第9に49首、巻第10に68首、巻第11に163首、巻第12に29首、巻第13に3首、巻第14に5首。中には重複歌あり)。
ただし、それらの中には女性の歌や明らかに別人の作、伝承歌もあり、すべてが人麻呂の作というわけではないようです。題詞もなく作者名も記されていない歌がほとんどなので、それらのどれが人麻呂自身の歌でどれが違うかのかの区別ができず、おそらく永久に解決できないだろうとされています。
文学者の中西進氏は、人麻呂はその存命中に歌のノートを持っており、行幸に従った折の自作や他作をメモしたり、土地土地の庶民の歌、また個人的な生活や旅行のなかで詠じたり聞いたりした歌を記録したのだろうと述べています。
※ 参考文献はこちらに記載しています。⇒『万葉集』について