大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

遣新羅使人の歌(34)・・・巻第15-3691~3693

訓読 >>>

3691
天地(あめつち)と 共にもがもと 思ひつつ ありけむものを はしけやし 家を離れて 波の上(うへ)ゆ なづさひ来(き)にて あらたまの 月日も来(き)経(へ)ぬ 雁(かり)がねも 継(つ)ぎて来鳴けば たらちねの 母も妻らも 朝露に 裳(も)の裾(すそ)ひづち 夕霧に 衣手(ころもで)濡れて 幸(さき)くしも あるらむごとく 出(い)で見つつ 待つらむものを 世の中の 人の嘆きは 相(あひ)思はぬ 君にあれやも 秋萩(あきはぎ)の 散らへる野辺(のへ)の 初尾花(はつをばな) 仮廬(かりほ)に葺(ふ)きて 雲離(くもばな)れ 遠き国辺(くにへ)の 露霜(つゆしも)の 寒き山辺(やまへ)に 宿(やど)りせるらむ

3692
はしけやし妻も子どもも高々(たかたか)に待つらむ君や島隠(しまがく)れぬる

3693
黄葉(もみちば)の散りなむ山に宿りぬる君を待つらむ人し悲しも

 

要旨 >>>

〈3691〉天地と共に長く生きていられたらと思い続けていただろうに、ああ、いたわしや、故郷の家を離れ、波の上を漂いながらやっとここまで来たのに、月日も経ち、雁も次々にやってきては鳴くようになり、母上や妻も、朝露に裳の裾を濡らし、夕霧に着物の袖を濡らしながら、君が無事であると信じてその帰りを門に出てしきりに待っているだろうに、この世の中の人の嘆きを知らぬ君ではあるまいに、どうして秋萩が散る野辺で初尾花を仮廬に葺いて、遠い雲の彼方の国の辺境の、露霜の降りる、こんな寒い山辺に眠ってしまったのか。

〈3692〉ああ、妻も子供も、今か今かと爪先立って待っているでだろう、そんな君なのに、どうしてこんな島に隠れてしまったのか。

〈3693〉もみじが散り敷くであろう山に眠る君を、もう帰るかもう帰るかと待っている家の人こそいたわしい。

 

鑑賞 >>>

 前の3首に続き、雪連宅満(ゆきのむらじやかまろ)が死去した時に作った歌。作者は葛井連子老(ふじいのむらじこおゆ)。宅満の霊を慰めようと、母や妻はもとより、自分らの悲しみをも述べています。

 3691の「共にもがも」の「もがも」は、願望。「はしけやし」は、ああいたわしい。「波の上ゆ」の「ゆ」は、起点・経由点を示す格助詞。~を通って。「なづさふ」は、浮き漂う。「あらたまの」は「月」の枕詞。「あらたま」は、宝石・貴石の原石を指すものと見られますが、掛かり方は未詳。「雁がね」は、雁。「継ぎて」は、続けて。「たらちねの」は「母」の枕詞。「妻ら」の「ら」は、接尾語。「ひづち」は、濡れて。「衣手」は、袖。「君にあれやも」の「やも」は、反語。「初尾花」は、秋になって初めて穂が出たススキ。「仮廬」は、仮につくった小屋。ここは土葬した墓の上に設けた小屋のこと。「遠き国辺」は、ここでは壱岐の島のこと。「露霜」は、霜のように冷たい露。「宿りせるらむ」の「らむ」は、現在推量。

 3692の「高々に」は、爪先立って待ち望むさま。「島隠れぬる」は、死んで葬られたことの敬避表現。3693の「散りなむ」は、散ってしまいそうな。「待つらむ」の「らむ」は現在推量。待っているであろう人。「悲しも」の「も」は、詠嘆。

 

 

※ 参考文献はこちらに記載しています。⇒『万葉集』について

『万葉集』掲載歌の索引