大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

隠口の泊瀬の山に霞立ち・・・巻第7-1404~1408

訓読 >>>

1404
鏡なす我(わ)が見し君を阿婆(あば)の野の花橘(はなたちばな)の玉に拾(ひり)ひつ

1405
秋津野(あきづの)を人の懸(か)くれば朝(あさ)撒(ま)きし君が思ほえて嘆きはやまず

1406
秋津野(あきづの)に朝ゐる雲の失(う)せゆけば昨日も今日(けふ)も亡き人(ひと)念(おも)ほゆ

1407
隠口(こもりく)の泊瀬(はつせ)の山に霞(かすみ)立ちたなびく雲は妹(いも)にかもあらむ

1408
狂言(たはごと)か逆言(およづれごと)か隠口(こもりく)の泊瀬(はつせ)の山に廬(いほり)すといふ

 

要旨 >>>

〈1404〉大切な鏡のようにいつも私が見ていたあなたを、阿婆の野に火葬に付し、美しい花橘の玉としてお骨を拾いました。

〈1405〉秋津野の名を人が口にすると、あの朝、そこに散骨したあなたのことが思い起こされて嘆きはやみません。

〈1406〉吉野離宮の近くにある秋津野に朝のあいだ懸かっていた雲がなくなると、昨日も今日も亡くなった人のことが思い出されてならない。

〈1407〉泊瀬の山に霞がかかったようにたなびく雲は、いとしい妻なのであろうか。

〈1408〉狂った言葉なのか、偽りの言葉なのか、お前の妻は泊瀬の山に籠っていると人が言っている。

 

鑑賞 >>>

 「挽歌」5首。1404の「鏡なす」は、鏡を見るように。「阿婆の野」は、火葬した野とみられますが、所在未詳。「花橘の玉に拾ひつ」の「に」は、~の如くで、美しい橘の花として、あなたの火葬の遺骨を拾っています、の意。1405の「秋津野」は、吉野の秋津か。「懸くれば」は、言葉に出して言うと。「朝撒きし」とあるのは、太陽が昇ろうとする朝は、死者との別れの時刻とされ、葬送は朝にするのが原則でした。1406の「朝ゐる」の「ゐる」は、じっと動かないでいること。「雲」は、火葬の煙をさします。

 1407の「隠口(こもりく)の」は「泊瀬」の枕詞。「こもりく」は、奥まった所の意とも、霊魂のこもる所の意とも言われます。「泊瀬」は、いまの奈良県桜井市初瀬。古代大和朝廷の聖地であり、葬送の地でもありました。天武天皇の時代に長谷寺が創建され、今なお信仰の地であり続けています。「雲」は、上の歌と同じ火葬の煙。

 1408の「狂言か逆言かの「狂言」は、狂って口走る言葉。「逆言」は、人を惑わす言葉。挽歌の慣用句で、死の知らせを聞いて耳を疑う表現。「廬す」は、仮小屋を建てて宿る意ですが、ここでは死んで葬られているということ。この1首だけを切り離して読むと、死者は男でも女でもあり得、葬法も火葬とは限りませんが、前の歌と同じ「妹」が死んで火葬されたものと見られます。

 「死ぬ」という語は、「恋死に」や無常観の比喩表現として多く用いられた一方で、具体的に「死」と関わる挽歌においては「死」の語を用いることは忌避されました。「死ぬ」の代わりに「離(さか)る」「過ぐ」「罷(まか)る」などの語を用い、「死」を婉曲的に表現するのが挽歌の歌い方とされました。

 

 

 

挽歌

 挽歌は『万葉集』の部立の一つで、死者の歌や辞世の歌、葬送の歌、病中の歌など、人の死に関わる歌のことです。日本の古典文学の中では、『万葉集』にのみ用いられており、『古今集』以降の勅撰集では「哀傷歌」となっています。元は中国の詩文集『文選』の分類に拠ったものらしく、本来は死者を葬る時に柩(ひつぎ)を挽く者がうたう歌の意味です。人麻呂の時代に最も盛んに作られ、人麻呂は、皇子や皇女が亡くなった時に求められて、殯宮(ひんきゅう)挽歌を多く詠んでいます。

『万葉集』掲載歌の索引

各巻の概要