大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

葦辺には鶴がね鳴きて・・・巻第3-352~353

訓読 >>>

352
葦辺(あしへ)には鶴(たづ)がね鳴きて港風(みなとかぜ)寒く吹くらむ津乎(つを)の崎はも

353
み吉野の高城(たかき)の山に白雲(しらくも)は行きはばかりてたなびけり見ゆ

 

要旨 >>>

〈352〉葦辺には鶴が鳴いて、港の風は寒々と吹いているのだろう、ああ、あの津乎(つお)の崎よ。

〈353〉吉野の高城の山に、白雲は行く手を阻まれ、ずっとたなびいているのが見える。

 

鑑賞 >>>

 352は、若湯座王(わかゆえのおおきみ:伝未詳)の歌。湯座は本来、高貴な御子に産湯をつかわせまつる婦人の職名で、若湯座というのは大湯座に対しての称であり、その補助をする職だといいます。後にこれが氏の名となったらしく、この王の名は、王の乳人の氏より得られたものだろうといいます。「葦辺」は、葦が生えている辺り。「鶴がね」は、本来は「鶴の声」を言いますが、「鳴いている鶴」の意にも用い、やがて「鶴」のことを言うようになりました。「吹くらむ」の「らむ」は、現在推量の助動詞。「津乎の崎」は、所在未詳ながら、伊予とも近江ともいわれ、作者と何らかの関係があった土地と見られます。「はも」は、眼前にないものを思いやる時に用いる回想詠嘆の助詞。

 353は、釈通観(しゃくつうかん)の歌。「釈」は、仏門にある者の意で、巻第3-327に出た通観法師のこと。「み吉野の」の「み」は、美称。「高城の山」は、吉野の金峰山(きんぷせん)の近くにある城山(標高720m)かと言います。「行きはばかりて」は、自由に動ける雲でさえ行き過ぎるのを妨げられるというので、山そのものが霊威ある神であることを表そうとしています。「見ゆ」は、見える、見られる。「見ゆ」の表現は、動詞・助動詞の終止形に接するのが通則で、この用法は古今集以後にはありません。古代の「見ゆ」は、上の文を完全に終結させた後にそれを受けており、存在を視覚によっては把捉した古代的思考、存在を見える姿において描写的に把捉しようとする古代の心性があった、と説かれます。

 

 

※ 参考文献はこちらに記載しています。⇒『万葉集』について

『万葉集』掲載歌の索引