訓読 >>>
石上(いそのかみ) 布留(ふる)の尊(みこと)は 弱女(たわやめ)の 惑(まどひ)に依(よ)りて 馬じもの 縄(なわ)取り付け 鹿猪(しし)じもの 弓矢囲みて 大君(おほきみ)の 命(みこと)恐(かしこ)み 天(あま)離(ざか)る 夷辺(ひなべ)に退(まか)る 古衣(ふるごろも) 又打(まつち)の山ゆ 還(かへ)り来(こ)ぬかも
要旨 >>>
石上の布留の君は、かよわい女の魅力に分別を失って、まるで馬のように縄をくくりつけられ、獣のように弓矢に囲まれて、天皇のご命令で遠い辺地へ流されていく。古い衣を打つ真土山から旅立って、もう帰ってはこないだろう。
鑑賞 >>>
天平11年(739年)3月、石上乙麻呂(いそのかみのおとまろ)が、服喪中の未亡人と恋に陥り、天皇の怒りに触れ、土佐に配流された時の歌です。「石上布留の尊」は、石上乙麻呂のことを地名によって呼び換えた尊称。「石上」は、奈良県天理市石上町で、石上神宮のある地。石上氏はもと物部氏で、代々この地に住んでいました。「布留」は、石上の内の小字。「弱女の惑に依りて」は、未亡人との密通のこと。「馬じもの」は、馬のように。次の「鹿猪じもの」と共に、誇張した表現になっています。「天離る」は「夷」の枕詞。「古衣」は、洗って砧(きぬた)で打つ意から、打ツの転音ツチとして「又打山」にかかる枕詞。「又打山」は、奈良県五條市の大和・紀伊国の国境にある真土山。「ゆ」は、起点・経由点を示す格助詞。「ぬかも」は、打消の詠嘆で、願望の意をもつもの。
石上乙麻呂は、聖武天皇代の官人で、左大弁などの要職に任ぜられ、急速に昇進を重ねていましたが、故・藤原宇合の室・久米若売(くめのわかめ)と、まだ夫の喪が明けぬうちに姦通した罪により、土佐に流されました。宇合は天平9年に天然痘で亡くなり、乙麻呂が処罰されたのが天平11年ですから、通常1年であるはずの服喪期間がより長くなっていたとみられます。また、処罰の内容が厳しすぎるのは、若売の生んだ百川(ももかわ:この時8歳)や、藤原氏出身の皇后にとって好ましからぬことだったために勅勘を蒙ったもの、あるいは、藤原4兄弟没後に台頭してきた橘諸兄との政争が背後にあったともいわれます。本来、男女間の関係は、特別な事情が伴ったものでない限りは問題とされなかったのです。
この時、久米若売も同じ罪で下総国に配流され、翌年の大赦によって帰京を許されましたが、乙麻呂は赦免されませんでした。その翌年にも恭仁遷都に伴う大規模な大赦があり、すべての流人が許されましたから、乙麻呂もこの時に帰京できたようです。その後、天平15年(743年)には従四位上に昇叙され、翌年、西海道巡察使に。また天平18年(746年)正月に、大唐使の任命があり、この時大使を拝命しましたが、計画は結局中止されました。さらに常陸守・右大弁を経て、従三位に叙され、参議にも就任。孝謙天皇が即位すると中納言に昇進しましたが、翌年に死去しました。
この配流事件は、急速に昇進した高官の恋と配流という、宮廷内外の耳目を驚かせた事件であったようです。歌は、土佐に流される乙麻呂を見送る人が作った体になっていますが、作者は乙麻呂自身とされます。未亡人と関係を結んだだけの大事とはいえないものでしたから、乙麻呂としては心中穏やかではなかったようです。そのため、自身の言としては直に言い難い気持ちをが何らの形で表したいと思い、乙麻呂を「石上布留の尊」という尊称をもって呼ぶ庶民の気持ちとして詠んだものとされます。
遠流(おんる)
伊豆(静岡県)・安房(千葉県)・常陸(茨城県)・佐渡(新潟県)・隠岐(島根県)・土佐(高知県)
日本の律令は唐の律令をまねたものですが、流刑地については、唐は本人の居住地からの距離を基準に定めているのに対し、日本の場合は都からの距離によって定められていました。石上乙麻呂の土佐配流は、遠流に当たります。
※ 参考文献はこちらに記載しています。⇒『万葉集』について