大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

石上乙麻呂が土佐国に流されし時の歌(3)・・・巻第6-1022~1023

訓読 >>>

1022
父君(ちちぎみ)に 我(われ)は愛子(まなご)ぞ 母刀自(ははとじ)に 我(われ)は愛子(まなご)ぞ 参上(まゐのぼ)る 八十氏人(やそうぢびと)の 手向(たむけ)する 恐(かしこ)の坂に 弊(ぬさ)奉(まつ)り 我(われ)はぞ追へる 遠き土左道(とさぢ)を

1023
大崎(おほさき)の神の小浜(をばま)は狭(せま)けども百舟人(ももふなびと)も過(す)ぐと言はなくに

 

要旨 >>>

〈1022〉私は、父君にとってかけがえのない子だ。母君にとってはかけがえのない子だ。それなのに、都に参上するもろもろの官人たちが、手向けをしては越えて行く恐ろしい国境の坂に、幣を捧げて無事を祈りながら、私は進まねばならぬ。遠い土佐の国への道を。

〈1023〉ここ大崎の浜は狭い所だけれど、どんな舟人も楽しんで、素通りしていく人などいないのに、この私は配流の身なので、素通りしていかなくてはいけない。

 

鑑賞 >>>

 土佐路すなわち紀伊国から土佐国へ船出する地に護送される時に、乙麻呂自身が本人の立場で作った歌とされます。1022の「愛子」は、愛する子。「刀自」は、主婦に対する敬称。「参上る」は、京へ上る。「八十氏人」の「八十」は、多数を具象的にいったもの。「手向」は、神仏に幣帛や花、香などを供えること。「恐の坂」は紀伊国の地名とする説がありますが、ここは上京する八十氏人が手向する坂であるので、都にとく知られた坂か。「幣」は、神に祈るときに捧げるもの。「追へる」は、次の駅や泊りに向かって行くこと。

 1023の「大崎」は、和歌山県海南市下津町大崎の地で、土佐国への発船港となっていました。「神の小浜」は、大崎付近の地。「百舟人」は、あらゆる舟人。「過ぐ」は、素通りする。「言はなくに」の「に」は、詠嘆。

 1019から1023までの歌は、「土佐の国に配(なが)さゆる時の歌3首併せて短歌」と題して一続きのものとしてあり、都→紀伊→土佐の道順に従って物語風に仕立てられています。明らかに連作であり、意識して構成したものと見えます。一方で、これらの歌は乙麻呂の作ではなく、すべて第三者が詠んだものとする見方もあります。

 

 

『万葉集』掲載歌の索引

各巻の概要