- ますらをの鞆の音すなり物部の大臣楯立つらしも(巻第1-76)~元明天皇
- 飛ぶ鳥の明日香の里を置きて去なば君があたりは見えずかもあらむ(巻第1-78)~元明天皇
- うらさぶる心さまねしひさかたの天のしぐれの流らふ見れば(巻第1-82)~長田王
- 秋さらば今も見るごと妻ごひに鹿鳴かむ山ぞ高野原の上(巻第1-84)~長皇子
- 秋の田の穂の上に霧らふ朝霞何処辺の方にあが恋ひ止まむ(巻第2-88)~磐姫皇后
- 妹が家も継ぎて見ましを大和なる大島の嶺に家もあらましを(巻第2-91)~天智天皇
- 秋山の樹の下隠り逝く水のわれこそ増さめ思ほすよりは(巻第2-92)~鏡王女
- 玉櫛笥御室の山のさなかづらさ寝ずはつひにありかつましじ(巻第2-94)~藤原鎌足
- 吾はもや安見児得たり皆人の得がてにすとふ安見児得たり(巻第2-95)~藤原鎌足
- わが里に大雪降れり大原の古りにし里に降らまくは後(巻第2-103)~天武天皇
- わが岡のおかみに言ひて降らしめし雪のくだけし其処に散りけむ(巻第2-104)~藤原夫人
- わが背子を大和へ遣るとさ夜深けて暁露にわが立ち濡れし(巻第2-105)~大迫皇女
- 二人行けど行き過ぎ難き秋山をいかにか君がひとり越ゆらむ(巻第2-106)~大迫皇女
斎藤茂吉(1882年~1953年)は大正から昭和前期にかけて活躍した歌人(精神科医でもある)で、近代短歌を確立した人です。高校時代に正岡子規の歌集に接していたく感動、作歌を志し、大学生時代に伊藤佐千夫に弟子入りしました。一方、精神科医としても活躍し、ドイツ、オーストリア留学をはじめ、青山脳病院院長の職に励む傍らで、旺盛な創作活動を行いました。
子規の没後に創刊された短歌雑誌『アララギ』の中心的な推進者となり、編集に尽くしました。また、茂吉の歌集『赤光』は、一躍彼の名を高らかしめました。その後、アララギ派は歌壇の中心的存在となり、『万葉集』の歌を手本として、写実的な歌風を進めました。1938年に刊行された彼の著作『万葉秀歌』上・下は、今もなお版を重ねる名著となっています。