大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

恋ふること慰めかねて出で行けば・・・巻第11-2412~2414

訓読 >>>

2412
我妹子(わぎもこ)に恋ひてすべなみ夢(いめ)見むと我(われ)は思へど寝(い)ねらえなくに

2413
故(ゆゑ)もなく我が下紐(したびも)を解けしめて人にな知らせ直(ただ)に逢ふまでに

2414
恋(こ)ふること慰めかねて出(い)で行けば山も川をも知らず来にけり

 

要旨 >>>

〈2412〉愛する妻が恋しくてどうしようもなく辛いので、夢に見ようと思うけど眠ることができない。

〈2413〉わけもなく私の下紐を解かせておいて、二人のことを人に知らせないでください。じかにお逢いするまで。

〈2414〉恋の切なさを慰めかねて飛び出して来たので、どこが山やら川やらも分からず、こんな所まで来てしまった。

 

鑑賞 >>>

 『柿本人麻呂歌集』から「正述心緒(ありのままに思いを述べた歌)」3首。2412の「恋ひてすべなみ」は、恋しくて仕方がないので。恋心がしきりにつのって止まない状態。「思へど寝ねらえなくに」は、自分は思うけれど少しも眠れない、の意。窪田空穂は、「『恋ひて術なみ』と、逢うことを諦めての上の恋しさをいっており、一首の調べもひどく落ちついたところから見て、旅にあっての歌ではないかと思われる」と述べており、斎藤茂吉は、「平凡な作だが、自然で感じのよい歌である」と評しています。

 2413の「故もなく」は、理由もなく。今夜逢いに行くとか、はっきりした理由もなく、の意。「解けしめて」は、解けさせて。「人にな知らせ」の「な」は、禁止。「直に逢ふまでに」は、単独母音アを含む字余り句。「下紐が解けるのは恋人に逢える前兆とする俗信を、あたかも恋人の意志が関与しているかのように言っており、また、男が自分との関係のことを他人に洩らすのを恐れています。窪田空穂は、「相応に複雑したことを、抒情の語を通してあらわしている、非凡な技巧である」と評しています。

 2414の「慰めかねて」は、単純に「慰めかねて」のほかに、気が鎮まらなくて、気が晴れなくて、じっとしていられなくて、などの焦燥、切実さを含んだニュアンスの言葉と見られます。「来にけり」の「けり」は、それまで気付かずにいたことに初めて気付いた気持ちを表す詠嘆の助動詞。こうした歌にありがちな、自身の苦労や困難を誇張して言うのではなく、「山も川をも知らず」とむしろ反対のことを言っている例は珍しいとされます。窪田空穂は、「その言い方のさっぱりしているのが魅力となっている」と述べています。

 

 

 

柿本人麻呂歌集』

 『万葉集』には題詞に人麻呂作とある歌が80余首あり、それ以外に『人麻呂歌集』から採ったという歌が375首あります。『人麻呂歌集』は『万葉集』成立以前の和歌集で、人麻呂が2巻に編集したものとみられています。

 この歌集から『万葉集』に収録された歌は、全部で9つの巻にわたっています(巻第2に1首、巻第3に1首、巻第3に1首、巻第7に56首、巻第9に49首、巻第10に68首、巻第11に163首、巻第12に29首、巻第13に3首、巻第14に5首。中には重複歌あり)。

 ただし、それらの中には女性の歌や明らかに別人の作、伝承歌もあり、すべてが人麻呂の作というわけではないようです。題詞もなく作者名も記されていない歌がほとんどなので、それらのどれが人麻呂自身の歌でどれが違うかのかの区別ができず、おそらく永久に解決できないだろうとされています。

 文学者の中西進氏は、人麻呂はその存命中に歌のノートを持っており、行幸に従った折の自作や他作をメモしたり、土地土地の庶民の歌、また個人的な生活や旅行のなかで詠じたり聞いたりした歌を記録したのだろうと述べています。

 また詩人の大岡信は、これらの歌がおしなべて上質であり、仮に民謡的性格が明らかな作であっても、実に芸術的表現になっているところから、人麻呂の関与を思わせずにおかない、彼自身が自由にそれらに手を加えたことも十分考えられると述べています。

『万葉集』掲載歌の索引

【為ご参考】三大歌集の比較