大和の国のこころ、万葉のこころ

不肖私がこよなく愛する『万葉集』の鑑賞blogです。

東歌(66)・・・巻第14-3401~3402

訓読 >>>

3401
中麻奈(なかまな)に浮き居(を)る船の漕ぎ出なば逢ふこと難(かた)し今日(けふ)にしあらずは

3402
日の暮(ぐれ)に碓氷(うすひ)の山を越ゆる日は背(せ)なのが袖(そで)もさやに振らしつ

 

要旨 >>>

〈3401〉中麻奈に漂っている船を漕ぎ出してしまえば、逢うことが難しい。今日のこの時でなければ。

〈3402〉あの方が碓氷の山を越えて行かれたあの日には、遠くからお振りになった袖までがはっきり見えました。

 

鑑賞 >>>

 3401は、信濃の国(長野県)の歌。「中麻奈」は語義未詳ながら、信濃の川はすべて渓流の趣きがあり、流れの幅も狭く、「中」の名を冠していることから、中流あるいは中州の意とする説や、「ちぐまな」と訓み「千曲川」とみる説などがあります。「浮き居る船」は、係留している船。「今日にしあらずば」の「し」は、強意の副助詞で、今日でなければ。川船で遠い旅へ出ようとする男を見送りに来た女が、船を眼前に見ながら、出発までのしばらくの時を惜しんでいる歌です。

 3402は、上野(かみつけの)の国(群馬県)の歌。古代関東には「毛野(けの/けぬ)」および「那須(なす)」と呼ばれる地域と、それぞれを拠点とする政治勢力が存在し、前者の毛野が上・下に二分されて「上毛野(かみつけの/かみつけぬ)」「下毛野(しもつけの/しもつけぬ)」に分かれ、奈良時代に上野(こうづけ)、下野(しもつけ)になったといわれます。

 「碓氷の山」は、群馬県と長野県の境界にある碓氷峠付近の山。原文では「宇須比乃夜麻」と表記されています。国境の碓氷の山を越える旅は容易ならぬ旅であり、防人か京の衛士として赴くためだったかもしれません。冒頭の「日の暮に」は、賀茂真淵は、日暮れの薄日が同音で「碓氷」にかかる枕詞であるとし、他が実景であると解しています。当時は、早朝に旅立つのが習いでしたから、「日の暮れ」どきとは無関係ということになります。「背なの」の「な」も「の」も、夫に対する親愛の意の接尾語。「さやに」は、はっきりと、明瞭に。旅行く夫の振る袖が、妻の心に焼きついて離れなかったようです。

 

 

 

『万葉集』掲載歌の索引

【為ご参考】三大歌集の比較